日本明慧
■印刷版   

「迫害を否定する」ことに対する認識


文/中国の大法弟子

(明慧日本)「迫害を否定することは難しくない」という文章の中で、同修は二つの問題を語っており、私も同じ考えを持っています。実を言うと、私も以前から、修煉、学法を通じて認識した法理は、同修の法理に対する認識とほとんど同じです。同修が関を突破する時、あるいは学法グループで学法する上で、このように同修と交流し切磋琢磨しています。当時、旧勢力のすべてを見破り、自分の認識は旧勢力を超えていると思い、したがって、旧勢力を否定していると私は認識しています。もともと簡単であった修煉はますます簡単になり、その後、私はとても自信を持つことができるようになりました。
 
  しかし、実際の修煉の中ではそう簡単にできることではありません。ただ法理を認識しているだけであり、本当にやりとげることができる、これこそが内包です。思想と行動が少しでも不安定であれば、基準に達することはできません。修煉する中で思想と行動をよく把握することに努力して、やっと本当にすばらしくやり遂げることができるのです。
 
  私は具体的にはこのようにしました。良くない観念、思想業力、執着心が出てきた時、「主元神は身体を主宰し、決定権を握っているのです」(『転法輪』)と考えます。その瞬間、その観念、思想業力、執着心から飛び出し、そして、発正念してそれらを取り除きます。それらの良くない思想はますます弱く、小さくなり、先天の純粋な自分はますます高く大きく、思想はますます簡単に、正念はますます強く、状態はますます和やかで、慈悲で、穏やかになります。
 
  このように修煉する中で、師父が要求されることに従い、情を放棄し、自我を放棄することができ、そして、完全に法に同化する生命になります。
 
  以上、当時の私が同修と切磋琢磨した認識です。間違っているところがあれば、ご指摘ください。合掌。  
 
2011年02月27日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/2/26/123485.html
■関連文章
迫害を否定するには念が正しくなければならない
旧勢力の「病業」の迫害を否定する
旧勢力の按排を全面的に否定する
正法修煉と個人修煉に対する私の認識
絶えず法に基づいて自分を正す(一)
心性の向上と関門を乗り越えること
内に向けて探す習慣を身につけよう
功能から見た、旧勢力の按配を否定すること(三)
功能から見た、旧勢力の按配を否定すること(二)
功能から見た、旧勢力の按配を否定すること(一)