■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/03/04/mh062176.html 



師と法を尊敬することについて

文/アメリカの大法弟子・宇明

(明慧日本)師父が伝えられた大法を、大法弟子である私たちは尊敬しなければなりません。しかし、実際はそうではありません。私が見たところ、修煉が緩んでくると、師父に不敬になる可能性があり、ある同修にはそれがとても顕著です。
 
 海外の大法弟子はいろんな場面で師父とお会いすることができて、いろいろなプロジェクトで師父にお会いすることができます。これは海外の大法弟子だけで、国内の同修は師父にお会いすることはとても難しいのです。大切にすべきです。しかし、師父と接触が多い同修は、逆に常人の考えで絶えず師父に求めることが多く、トラブルに遭ったとき師父に任せるという心や、さらに師父が要求しておられることを不満に思っています。
 
 師父の意思が宇宙の選択である事を忘れていませんか? 師父が常に皆の機嫌をとり、同修の気分がよい方法で行われることが正法だと思いますか? まさか弟子としてどのように師父を見るか分からないのしょうか? 誰が法を正し、誰が師父に手伝って法を正しているのか、この基本的な道理が分からないのでしょうか? 師父の慈悲のもとで、一部の同修は自分の人心を無視しています。私はとてもショックを受けています。そこに、私たちの修煉の不足が見えます。
 
 師父に対する不敬な表現は、私たちの学法の状況にもよります。師父は『オーストラリア法会での説法』で話されました。「自分の観念を自分としないでください。多くの人は法を読む時に、観念を抱きながら読んでいます。『この部分が良い。あの部分は理解できない。この部分は良くないと思う』という情況です。皆さんに教えますが、自分が賢いと思い、自分の判断が正しいと思っていますが、実はそれは大間違いです。なぜならば、あなたの考えは常人社会で築かれたものであり、あなたの善悪を量る基準は常人の基準であり、決して常人を超えていないため、あなたは法の本質の所在を見出すことができません。自分の執着心があなたが法を得ることを妨げています。自分が良いと思っている部分を選り出して読んでいますが、あなたは真に修煉しているのではありません。なぜならば、良くないと思った時、または読みたくないと思った時、紛れもなく後天的に形成された良くない心と考えが作用しています。しかし、それはあなたの本当の自分ではありませんが、それをあなたは自分だと思ってしまいました」
 
 師父は『北京国際交流会での説法』で次のように言われました。「私が下りてきた時、すでに極めて高い境地の中に私の必要なすべてを造成しておきました。私は人間に転生してこの世に来ましたが、私の威徳は、すべての境地を超えた外で主宰しています。私がこの世に来たといっても、私と三界の衆生との間は無数の層の粒子により隔てられています。私は、宇宙に存在する最も根源的な要素を持っていますが、私はその中にいません。私はすべての宇宙の智慧を構成する源泉ですが、私は何も要りません。しかし、衆生は異なる次元の宇宙内の物質から構成された生命です。私はこの世に来ていないと言えば、私は人間の境地にいませんが、人間のこの世に現れています。これは、簡単で概括的な話です」
 
 実際、師父に対する疑いと不満は大法に対する認識不足で、間違って認識しているのです。これは、国内の迫害がない環境下で、自分の人心と観念を取り除かないために生じた間違った認識です。この世におられる師父を尊敬しない事は大法を尊敬しないことであり、大法弟子という称号に値しません。師父は『精進要旨二』「提案」で次のように言われました。「『本当の師父は天上にいる』、『この世の師父と決別すべきだ』、『師父の身体にある何らかのしばりを解いてあげる』と邪悪なことを言っている人もいます。李洪志は、ただ一人なのです。わたしには副元神もなければ、常人のような三魂七魄もありません。わたしこそが主体です。わたしの本体の中の異なる次元の粒子で構成された異なった空間の中の、さらに大きな身体から、さらに小さな身体まで、すべてわたしのこの世での主体によって制御されており、わたしのこの世での主体の考えに基づいているのです。法身はわたしの智慧の具現的表現で、功身はわたしの無辺の巨大な功の集合体です。この世にいる師父を認めていないとは、つまり自らを大法弟子と認めていないということですが、それでは修煉者でもなくなり、圓満成就などなおさらのことです」
 
 この世にいる師父を認めない同修はいませんが、師父に対する疑いと不満は師父を認めないことと同じではありませんか? 私たちは自分の考えに気をつけなければなりません。
 
 私たちはいつも師を尊敬し、法を尊敬すると言っていますが、私は師を尊敬する事は法を尊敬する事と同じであると思っています。大法は師父が私たちに伝えられたという事を忘れないでください。もし、師父を尊敬しないなら、大法を得る価値がありますか? 修煉と関を突破するときの苦しみ、人を救う難しさを私たちは知っていますが、師父の苦しみを真剣に考えたことがありますか? あなたを救い救済するために、師父がどのぐらい尽くされたか、師父には業力がありません。しかし、弟子のために業力を取り除き、私たちを救済しておられます。師父は常に、私たちのために業力に耐えておられます。ここまで考えられるなら、師父を尊敬するに違いありません。
 
2011年03月04日


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