日本明慧
■印刷版   

着実に修めることについて


文/中国の大法弟子

(明慧日本)新年早々、2人の同修が病業でこの世を去ったことを聞き、心をひどく痛めました。衆生を救う道のりの中で、我々は2人の仲間を亡くしただけでなく、常人は修煉する人が病気で世を去ることについてどう思うのでしょうか? 少々の誤解が生じてもおかしくないでしょう。また、何人かの同修達がいろいろな病気に悩まされ、自分自身の修煉に難を増やしたことを聞きました。彼らのことを聞いたことがあり、彼らの修煉状況も知っていますが、やはり根本的な原因は自分自身が着実に修めることにおいて精進していなかったからだと思います。
 
 周りの同修達の問題点について、私の考えを述べてみたいと思います。
 
 大法を学んでも大法を理解していない
 
 大法書籍や経文を熟読している同修がいて、『転法輪』も丸暗記しています。しかし、彼はこの正法時期における真の修煉とはいかなるものかについてよく分かっていません。問題に遭遇した際、まず彼が思いつくのは「これは旧勢力の按配だ。受け入れず、全面的に否定しよう」と、口では旧勢力の按配を否定していても、考えや行動はいつもと同じです。実は、問題解決の答えを自分自身に向かって捜し求めることこそが、旧勢力への否定であることを同修はよく分かっていないのです。一部の同修は、大法を学んでもそれを自分に照らし合わせず、人に照らし合わせてしまいます。さらに、一部の同修は何か耳に障ることを言われると、すぐに怒り出し、結果として、病気の状態から抜け出せなくなります。
 
 私は、私自身の状況に合った学法の方法を見つけることが一番だと思います。以前、私は大法書籍を通読しましたが、師父の説法をよく理解できませんでした。以後、大法書籍を暗記することに変え、『転法輪』だけでなく、師父のその他の経文も暗記することにしました。そうすることにより、大法弟子が正法の時期においてどう修煉するべきかを、だいぶん理解できるようになり、そして、大法に関する認識も感性から理性のレベルまで上がってきました。もちろん、大法を丸暗記できるからと言って自分の修煉が良くできているとは言えず、大法書籍を暗記することにより、もっと法理を理解し、心性を修めることが目的です。着実に修めることによって返本帰真することが最も重要なことです。大法をいくら熟読し、暗記しても、自分自身を修めない限り、真の修煉とは言えません。
 
 私の周りに、表向きは学法の形をよく保っていても、着実に修めていない同修が少なくありません。彼らを見て疑問に思う同修は「『転法輪』も暗記できるのに、なぜそんなひどい病状に見舞われるのですか?」と聞きます。原因はここにあります。これらの同修達は学法と心性を修めることを切り離し、時には自分が流暢に大法を読み、暗記できることを人に見せびらかす執着心にまとわりつかれ、だんだんひどくなることもあります。
 
 グループ学法の形だけを維持し、真に自分を高めようとしない
 
 グループでの学法形式は、師父が指導して下さったものですが、中国本土でそれを保つには複雑な状況にあります。なぜなら、この数年間に多くの迫害が起きたからです。その中で、真に修煉している人、そうでない人、正法の過程に遅れている人、修煉しているか否かの人、様々な同修がいました。同修には慈悲心を持って接するべきですが、同じグループの同修達の修煉状態も把握すべきだと思います。皆、自分自身を大法に照らし合わせれば、互いに励ます効果がありますが、そうでなければ、大法を学ぶことの邪魔になってしまいます。
 
 私が知っているある同修は、毎週幾つかのグループ学法に参加していますが、どのグループも状況が良くありません。他人の執着しか見ず、何か言われるとすぐ怒ってしまい、メンツと人情を保とうと、学法グループは世間から自分を守ってくれると考えたり、互いに情に溺れたりするなど、いろいろなケースが混雑しています。長い間グループ学法に参加したわりには、病業に陥ってしまう同修が多くなりました。彼らは未だにグループ学法に参加する真の意義が分かっておらず、病業から抜け出そうと考えるあまり、もっと多くのグループに参加し、同修の助けによって病状の回復を図ろうとしているのです。
 
 自分自身の修煉に責任を持とうとするなら、本当の原因を自身から見つけ出すべきです。師父が言われた「宗教形式」の通り、分かっている人は宗教の形式を利用して自己修煉をしますが、分かっていない人は宗教の形を保とうとしているだけです。この形式自体は神に求められたものでなく、神が我々に求めているのは、我々がこの形式に沿って修煉することによっていかに自分を浄化し、そして真に法を実証し、神の存在を実証するかのことです。
 
 旧勢力は少しでも我々の非を逃そうとしません。なぜ私たちは冷静になり、真に自問しないのですか? 一部の同修たちはこのようなグループでの学法を行っているにもかかわらず、心を静めることができず、混乱を感じますが、反対に嬉しく感じる同修達もいます。なぜ嬉しくなるのでしょうか? このような環境が彼らの常人の心にマッチし、一人でいる時の寂しさが皆と一緒にいることにより解消され、参加しないと、逆にイライラしてくるのです。このようなグループでの不祥事の発生も多いのです。
 
 例えば、私が知っている同修は、3つのグループにこれらの問題が存在することを知り、皆に問題点を指摘してみましたが、誰も聞き入れてくれませんでした。彼がそこでの学法をやめた後、グループ内でいろいろな迫害事件が起こり、警官に連行されないとしても、そのグループ内の同修の修煉状態は良くありませんでした。
 
 本当に我々は冷静になり、理性的に大法を認識しなければなりません。衆生を救うのは本当に難しく、しかも、彼らの態度は簡単に動揺してしまうこともあります。もし、大法弟子が正しく道を歩まず、問題を引き起こしたら、常人達もそれを見て反対の方向に行ってしまうのです。師父がおっしゃるように、人を救う難しさが今になって少しずつ分かってきた気がします。大法弟子が成熟し、強く正念を持って自分の修煉を貫くことができて初めて、より良く、より多くの衆生を救うことが可能になります。
 
 以上は個人の見解に過ぎず、認識のレベルにも限界がありますので、不足の部分は同修達の慈悲なるご指摘をお願いします。
 
2011年03月05日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/2/27/123498.html
■関連文章
ブルガリアの大法弟子の修煉体験
グループ学法を通じて、難関を2回も乗り越えられた
学法に集中できず形式的に陥りやすい原因を探す
法理をはっきり理解すると修煉に迷いがなくなる(二)
グループ学法の環境を大切にする
共に精進する中で自分を修める(一)
法の暗記の中で自分を高める
多く学法して、修煉に勇猛邁進する
グループ学法で昇華する(二)
グループ学法を始めてから、早朝煉功が生活の一部となった