■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/03/17/mh185584.html 



良いこと、悪いこと(一)

(明慧日本)修煉者と常人の違いは何でしょうか。修煉の道のりを振り返ってみると、一人一人の修煉者の生活と仕事の環境、人間関係、修煉の難が違いますが、修煉者に対する法の要求は同じです。ある次元まで修煉したら、その次元の法に合わなければなりません。世間法修煉が一つのラインで、このラインは一人一人の修煉者にとって公平で、円満成就に向かう中で必ず通る道です。
 
 この世で発生するすべてのことは修煉のためにやってきたのです。良いことであれ、悪いことであれ、私たちが出会うことは、その中から修めることができるので、みな良いことです。常人は個人の利益、私欲を満足させるために力を尽くしています。それらを手に入れたら嬉しくなり、良いことだと思います。逆の場合、病気にかかり、災難に遭うと天を恨んで人を責め、悪いことだと思います。修煉者は次のように考えなければなりません。「円満となって佛果を得る、苦を嘗めるをもって楽と成す。世上の苦に耐え得れば、世を出づれば是佛陀」(『洪吟』「その心志を苦しめる」) 師父はまた『転法輪』の中で「職場で、あるいは社会で評判が悪くても本当に悪い人とは限らず、逆に評判が良くても、必ずしも本当に良い人とは限りません」とおっしゃいました。世間の良いことであれ悪いことであれ、修煉者は必ず直面するもので、私たちの心性はその中から向上し、私たちの意志もその中で練磨されるのです。
 
 修煉の過程で、病業は一人一人の修煉者が必ず経験するものです。『転法輪』の中ではこのように書かれています。「病根はすでに取り除かれており、残りはほんの少しの黒い気で、それを外に発散させるので、あなたにほんの少しだけ難を与え、ちょっとした苦しみを嘗めさせることになります」 修煉の初期段階で、体からこの黒い気が抜けたら、楽に感じ、本当に病のないこの不思議な感覚は言葉では表現できません。
 
 その後、修煉を続けると、体はまた体調が悪い感覚がありますが、すぐその難を乗り越えられます。しかし、今は体調が悪い程度ではなく非常に痛く、たまには痛くて動けないほどです。友人たちは私のことから大法の不思議さを知りましたが、自分がこんなに痛くて動けないことが他人に知られたら、大法に泥を塗るのではないかと心配です。
 
 このように考えれば考えるほど、痛くなります。三つのことを怠ったことはないので、どこが誤っているか探してみました。明慧ネットに載っている同修の体験では、みな正念で警官の迫害を止めたり、病業からすぐ乗り越えたりします。私が一番感服した一篇の文章は、女性の同修が刑務所で警官に殴打され、体の数カ所を骨折しました。刑務所の医者はいい加減に接骨してギブスをしましたが、同修はそのまま煉功を続け、まもなく動けるようになりました。このとき、監獄の医者は同修に「骨が繋がって大丈夫だと思うな。ろくに接骨もせずにギブスしたからな」と言いましたが、同修は一笑に付しました。同修は、続いて煉功をしました。同修の動きには何の異常もなく、監獄の医者は同修を検査してみましたが、骨はちゃんと繋がっていて、接骨のラインも見つかりませんでした。その時、刑務所の医者も、警官も驚きました。同修が一笑に付したことで大法に対する固い信念を見ることができます。
 
 (続く)
 
2011年03月17日


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