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魔難の中で心を正しく持つべし(一)


文/中国の大法弟子

(明慧日本) 最近、何人かの同修たちがいろいろな「病業」の形で亡くなり、「病業」の状態に長い間落ち込んでいます。師父はこの20年来、何度も違う角度から、真の修煉者として「病」に対してどう対応すべきかを教えてくださいました。特に、迫害が起きてから、さらに各方面からどのようにしたら正念で旧勢力の迫害を否定し、病魔に勝つかをはっきりと教えて下さいました。明慧ネットでも同修たちの正しい念、正しい行いが書かれていますが、どうしてまだ長年修煉している大法弟子が長期間、病に苦しめられているのでしょうか? 私は自分の体験からこのような同修たちの手助けができればと思います。
 
 去年3月、私は身体の動きや頭の反応が鈍くなり、知らないうちに歩行が困難になり、首が曲がってしまい、頭ものども痛くなり、脳血栓の症状が出て1カ月経ちました。まだ勤めていましたので、同僚に病院に連れて行かれました。検査の結果は中風でした。撮った写真から頭頂部にたて2本指ぐらい幅10センチの範囲で出血があり、脳が圧迫され、首が曲がってしまいました。医者からはさっそく入院手術が必要だと言われました。そのときは4月29日で、他の医師から5月1日はどうかと聞かれましたが、担当医師は5月1日にも手術すると断言したので厳しさを感じました。
 
  病院から出て、同僚は入院用品を準備するように言いました。妻(同修)は、入院しないで家に帰りましょう、師父しか救ってくださいませんと言いました。私は少し迷いましたが、自分は修煉者で常人の観念でこのことを考えるべきではないと思いましたが、一方では確かに不安もあり、自分の修煉に問題があると分かっていますので、どうすればいいか分かりませんでした。
 
 数カ月前にまだ症状が明らかになる前、同修は何度も私に「多く学法して、発正念も重視して、内に向けて自分の問題を探してくださいね」と警告してくれ、「重視しないと、この難関を乗り越えることは難しくなります」と言ってくれましたが、依然として私はそれを重視しませんでした。
 
 家に帰った後、医師である同修を招いて交流しました。彼は撮った写真を見て、病状については触れないで、法に関する理解と認識を述べました。「修煉者として遭った魔難をどう見るべきか、学法の中で法をどう認識すべきか、思想業力による妨害をどう取り除くべきか」などの教訓と体験を語ってくれました。数時間にわたる交流で、私の心境はだんだん落ち着いてきて、病魔を取り除き、難関を乗り越えようという信念が固くなりました。
 
 6月に仕事に復帰しました。7月中旬に会社全員の健康診断で、再び頭部の検診を受けたとき、写真で見る限り血の塊はほとんど消え、曲がった首の頚椎も正常に戻りました。上司と同僚たちは、あれほど病状がひどがった私が入院して手術するどころか、薬も飲まず注射もせずに回復したことに皆驚きました。
 
 今回体験した魔難から、私は次のように悟りました。
 
 一、魔難の中で心を正しく持つべし
 
 師父は、講法で我々に次のように教えてくださいました。「今後自分で修煉する場合、いろいろな難が待ちかまえているのです (『転法輪』) 私が修煉の道を選択した以上、どんな魔難に遭っても、それは自分が必ず向き合わなければならず、逃げてはいけないものです。師父はこのような大きな法を伝え、万古の真理を教え、常人を返本帰真させてくださいますので、魔難は必ずあり、心を正しく持たなければ絶対に乗り越えられません。法理が分かっても、修煉中の人間ですから、いろいろな試練が現れます。
 
 入院しないことを決めた後、心配してくれた同僚たちは息子に「もしお父さんが手足のしびれや、はっきり見えなかったり、しゃべれなかったりしたら、いつでも教えてほしい。24時間携帯が通じるようにします」と言ってくれました。4月30日朝の煉功で、「法輪周天法」をやっているとき、突然右手のしびれを感じましたが、落ち着いて「私は法輪大法の弟子だ。このぐらいの試練は何ともない」と思った瞬間、良くない感覚がすぐ消え、正常になりました。
 
 修煉は厳粛で、試練も厳しいものです。2日目の朝、煉功の前にトイレに行って電気をつけた時、目の前にミミズのような模様が現れ不安になりました。眼底出血ではないか? 煉功中にどうなるのかと思いました。第2式の時、頭の中に功が現れました。「体調がすぐれないと、すぐ病気にかかったと思い込む人もいます。どうしても煉功者としての自覚を持たず、ちょっとしたことでも病気だと思い込み、『どうして面倒なことがこんなに多いのか?』と思ったりします。はっきり言っておきますが、多くのものはすでに消去してあげました。あなたが遭遇した難は本来よりずっと小さくなっており、もし消去してあげなかったら、今の難に遭って死んでしまったか、寝たきりになっているかも知れません。ちょっとした難に遭ったぐらいで我慢できないなど、そんな甘いことがどこで通用しますか?」(『転法輪』)われわれが生生世世に積み重ねた業はどれぐらい多いでしょうか? 師父は私たちのためにどのぐらい耐えてくださったでしょうか? もし法輪大法を修煉しなかったら、ここに立って煉功できるでしょうか? 修煉者はどんなことに遭っても皆よいことだと見るべきで、心が動じてはいけません。師がおられ、法があるので、出血しても怖いものはないはずです。しかし、最初のよくない念があったため、1週間経ってやっと治りました。今、私の視力は依然としてよく、50歳すぎても老眼もなく、メガネなしで小さな文字の説明書も読めます。
 
 2003年、労働教養所から出て元の勤め先に戻りましたが、長い間仕事ができませんでした。同修たちとも連絡が取れず、大法の本もなく、インターネットの封鎖も破ることができないので、やることもなく、偶然ネットで占いをやってみましたが、2012年に自分に大きな災いがあり、逃れられれば30年生きると書かれていました。そのとき思ったのは、将来はすべて変わるので、修煉者の正念ではなく、幸せな気持ちでした。
 
 2008年、直接師父の講法を聞いたある占いが上手な人が、私を見て心配そうに「来年を過ぎれば無事なので、ぜひ気を付けてください」と言いました。結局2010年に入ってすぐ前述の魔難がありました。またその年、ある同修がリフォームする際に、私が執着で風水のネットを調べていた時、「風水は修煉者と大徳の士には無意味です」という赤い文字が現れました。これは師父が注意を促してくださっていると分かりました。
 
 このような魔難はある程度自分が求めたのと同じです。修煉者としては固く師を信じ法を信て、言葉だけでなく、わずかな過ちもいけません。
 
 二、必ず心を込めて学法し、法に基づいて法を認識する
 
 私はすでに15〜16年修煉しており、『転法輪』を暗記するほどでもないですが、同修たちと交流するとき、師父の違う時期、違う場所の講法を皆知っていて、比較的よく理解していると思い込んでいました。
 
 ある面識のない女性の同修が私を見舞いに来た時、自分が魔難を乗り越えた経験から「当時すべての同修はもう私がダメになったと思い、修煉をやめないと大法に悪い影響を与えかねないと心配しましたが、師父は私を見捨てられないと信じ、自分が乗り越えられないと思いませんでした。2カ月で乗り越えました。ほら、今は何でもできますよ」と私に語りました。最後に、彼女は「あなたは法をよく学んでいません」と言いました。
 
 震えるほどでした。自分でも、しっかり学法できなかったことが今回の魔難につながったと思いました。しかし、どのようにしたら学法がよくでき、真の修煉者はどう学法すべきなのか? これこそよく考えるべきです。
 
 この10数年を振り返ると、私は師父の講法ビデオをすべて拝見し、すべての講法も繰り返し読みました。そして、2004年から毎日明慧ネットでたくさんの交流文を読み、ある程度の法に対する理解があると思い込みました。それなのに、どうして初対面の同修からも学法がよくできていないと指摘されたのでしょうか?
 
 一つ重要なことは、私は何のために学法するのでしょうか? どんな心で学法すればいいのでしょうか? 師父は同修の口から私の学法について指摘してくださいました。知識を得るため、見聞を開くために、師父の「大法をよく学ぶには、いかなる目的も抱かずに学ぶ事こそ正しいのです」(『精進要旨』「法を学ぶ」)をよく理解せず、しかも自分には問題がないと思い、人より良いので、最後に師父が一気に取り除いてくださると思っていました。ひどいことに労働教養所で良くないことをやったのに、それは邪悪に立ち向かうため、同修を保護するためだと口実をつけました。それに、常人の仕事の能力に執着し、名利心、顕示心、恨む心、嫉妬心、そして色と欲の心等々、学法をしながらも他のことを考え、しかも頭がいいからできると思ってしまいました。このような学法では法が心に入り、奥深い法理を理解できるでしょうか? 絶対にできないのです。私は悟りました。修煉者はこの奥深い佛法をどんなに理解しても、それは大海の水の一滴にすぎません。謙虚な気持ちで師父と大法に対し、自分の不足を厳しい目で見て、地道に心性を修めてこそ、法を理解でき、本当に向上することができるのです。
 
 (続く)
 
2011年04月06日

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