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内に向けて探すにあたってのいくつかの間違いとアドバイス(一)

文/蓮葉碧

(明慧日本)私は同修が書いた交流文章をよく読み、周りの同修達ともよく一緒に学法、交流します。多くの大法弟子の体験と、心を修める体験からの悟りは、私にとても大きな啓発と励ましを与えてくれ、私が精進するにあたってとても大きな作用を果たしてくれました。交流文章を読むことで、私は向上することができ、いつも感動して涙を流しています。また、このような時、心身ともに明らかに浄化されていることを感じています。私はいつも同修たちのことを本当に素晴らしいと敬服しています。これは、大部分の大法弟子と交流文章から得た私の感想です。しかし、一部の大法弟子の文章と身近にいる同修から、少し残念な点と至らなさを感じることがあります。私の今の次元で見ると、これは入念に内に向けて探すことを怠り、または内に向けて探していてもその深さが足りておらず、あるいはどうやって内に向けて探すのかをはっきり理解できていないことが、主な原因だと思います。ある角度から見ると、修煉は心性を高めることが第一であり、内に向けて探すことは直接、私たちの心性を高める方法であり、師父が賜られた法の宝です。どのように内に向けて探すかということはとても肝心なことです。現在、私が見たり、聞いたりして感じたいくつかの点を書き出して交流することで、皆さんと一緒に切磋琢磨したいと思います。
 
 一、内に向けて深く探さないため、観念の根まで届かない
 
 ある同修はある時、内に向けて探し、とても多くの良くない心を見つけることができます。例えば情、利、恐れる心、人に言われたくない心などです。そのような時、同修は一気に十数個、ひいてはもっと多くの良くない心を探し出し、とてもたくさんの良くない心を並べることができます。しかし数日後、同じ心がまた出てきて、同じ問題に遭うと乗り越えることができません。私の理解では、そのような時はさらに深く内に向けて探し続けると、問題の根源を探し当てることができるかもしれません。これは井戸を掘るのと同じことで、一掘りでは濡れた土しか見えないのですが、二掘りすれば泥水が出てきて、続けて三、四回掘れば水源を見つけることができるかもしれません。一部の同修は、一掘りか二掘りしかせず、深く掘っていません。そのため、見た目にはうまく内に向けて探すことができ、良くない心をたくさん見つけたかのようですが、いつも良くない心の根を取り除くことができず、観念をなくすという目的にまで至らないのです。
 
 師父は次のようにおっしゃいました。「この領域を切り開くには、常人の観念を根底から変えなければなりません。さもなければ、宇宙の真相は人類にとって永遠に神話のままであり、常人は己の愚かな所見に限定された枠の中で永遠にいまわるしかありません」(『転法輪』「論語」)師父はまた、次のようにもおっしゃいました。「しかし中国人はどこが違うのでしょうか。あることの原因を教えたら、これが正しいと思いながら、その原因の原因をまだ考えています。原因の原因を教えたら、また原因の原因の原因を考えています。ですから、最後まで迷いを破ってから、はじめて全てを開くことができます」(『スイス法会での説法』) ですから、私は中国人の同修が内に向けて探す際、何度も深く内面を掘り下げるべきだと思います。例えば、情により心が動じたとしたら、なぜその人のために情が動き、その人の何が自分の情を動かしたかを内に向けて探すべきです。そして、もし、その原因が分かったら、さらに続けて、自分はなぜこの面で心が動じたのかを内に向けて探すべきです。そして、執着や観念の根まで深く探し出し、それをなくすべきです。もちろん「修は己にありて、功は師にあり」(『転法輪』)と言うように、私たちが観念の根を探し出した瞬間、師父が執着の物質を取り除いてくださり、私達のこちら側の心は、すぐに明るく、清くなり、ひいては全身が震動するなど、不思議な感覚を感じます。もちろんこれは例にすぎず、実際の状況はもしかしたら千差万別であるかもしれず、皆さんの参考としてもらいたいのです。
 
 二、良くない思想と思想業力とを混同して区別せず、ただ抑制するのみ
 
 ある同修は、どれほど良くない考えが生じたときでも、その考えの根がどこにあるのかを考えずに「滅」といつも念じています。また、身体の調子が悪くなっても発正念をします。もちろん、このようなやり方が絶対に間違いとは言えませんし、緊急の時に発正念をすることは効果があります。しかし多くの場合、私達はまず内に向けて探すべきであり、これがまさに自分を高める機会です。執着をなくし、観念をなくすと、何かを行うにしても、より純粋に行うことができ、より良く法に符合することができ、何をしても思い通りに行うことができます。本当に思想業力が現れてきたとしても、発正念をすると同時に内に向けても探すべきです。
 
 ある同修は具合が悪い、あるいは病態や他の良くないことに直面した際、「これは旧勢力の妨害で世の人を救い済度することを妨害している」と考え、我慢しながらやるべきことをしたり、人に「三退」を勧めたりしています。ある同修はやるべきことが終えた後、具合が良くなり病態が解消されると「自分は正しく行ったため旧勢力の按配を否定した」と思います。私は、たまにこのような同修たちのことを心配に思います。なぜならば修煉には絶対的な公式がなく、このようなやり方と考え方しか知らないのでは、根本的に問題を解決できるとは限らないからです。これは、ただ難関を後回しにしたか、あるいは別のものに転化させただけで、それを取り除いたわけではありません。もしかすると、これから同じ問題、あるいは他の面倒なことに遭遇するかも知れません。とても固い意志で大法のことをしていた一部の同修が「病業」の形で旧勢力に連れて行かれたとか、他の魔難に遭うなどのケースがあったのではありませんか? これはまさに、旧勢力の按配を完全に否定できず、難関が積み重なってしまい、乗り越えることが非常に難しくなり、至難の関門になってしまったためかもしれません。
 
 実は、旧勢力はそんなに強大な存在ではありません。師父が旧勢力を利用して私達の人心をなくしているだけです。私は一度、「旧勢力が按配した観念を破ることこそが、旧勢力の按配を破ることである」と悟りました。師父は私達に繰り返し教えられています。「人心を片付けば悪は自ずから敗る」(『洪吟二』「別れ哀しむ」)師父がずっと私達に要求されている人心および執着の放下は、すなわち私達に旧勢力の按配を完全に否定させ、すべての難関を突破させ、乗り越えさせるためです。しかし、旧勢力は法を正す要求に合わない多くの難関を数多く按配しました。以前、私たちは皆、法に対する深い認識がなかったため、多くの苦労をしたかもしれませんが、現在、私たちは目覚めているべきで、法に対する固い信念を表すだけではなく、本当の意味で人心を修めてなくすべきであり、これこそが一番肝心なことです。難関の中で正しい念、正しい行いを貫くことは敬服すべきことですが、もし着実に魔難を乗り越え、難関に陥ることなく修めることはもっと良いことです。
 
 (続く)
 
2011年04月11日


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