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内に向かって探す

文/中国の大法弟子

(明慧日本)先日『転法輪』を学法したとき、「求めるということの問題」について、「修煉もしていないのに、あなたが講習会に参加しただけで功が出たとでも言うのですか? そんなことがありえますか?」と書かれていました。この中の、「修煉もしていないのに」という言葉が大変私の心を打ちました。数日間ずっと外に向けて探し、同修Aさんが一年も患っている脚はなぜいまだに良くならないのか、Bさんの一部の行動は修煉してからも全然改善されていないなどと、ずっと人のことばかり見ており、人がよく修めていないとばかり思っていました。今回、師父の言葉に啓示され、自分がやっと修煉について悟り、ずっと外に向けて探していて、これは修煉ではないと分かりました。
 
 なぜ、いろいろな事が私に見えたのでしょうか。私にも似たような問題があるのではありませんか。自分の観念はずっとそのままではありませんか。探しに探して結局、人の問題にしてしまいました。こうして、自分も焦って、師父に何とかご啓示をいただくようにと心の中でお願いしました。やっと、私は自分が真に内に向かって探しておらず、自分は目が近視で、耳が遠いという観念を持っており、また、師父に調整していただこうという心があると悟りました。
 
 「師は学習者に何を与えたのか」の中で、師父は「言うまでもありませんが、修煉するつもりのない者や、今になってもまだ分かっていない者の面倒はわれわれは見ません。われわれが面倒を見るのは本当の修煉者だけです」とおっしゃいました。私は、ずっとこの人の観念を抱え、修めていないのならば、私もただの人に過ぎないではありませんか。いつも夜になるとよく見えないので、夜はほとんと外に出ません。人の声が小さいと聞き取りにくいので、一層のこと聞かなくなりました。この目と耳について、自分が常人のレベルで認識しており、ずっと師父に調整していただきたかったのです。
 
 自分が修めず、否定もせず、常人の観念ばかりに固執して、何をいまさら師父に面倒を見てもらわなければならないのでしょうか。師と法を信じておらず、旧勢力の道を歩むことではありませんか。修煉は厳粛なもので、必ず内に向かって探さなければなりません。師父の「修煉もしていないのに」というお言葉は、本当に警鐘となりました。私は引き続き、どこをまだ修めていないのかをさがし、合格した弟子になるように努力します。師父、ありがとうございました。
 
2011年04月17日


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