■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/04/23/mh252988.html 



すべての心を放下したのか
——常人から修煉者に向上してこそ病業を克服できる

文/中国の大法弟子

(明慧日本)長年にわたり、病業の問題は修煉の道で、いつもある程度の妨害の作用を果たしています。特に一部の同修は、病業の関を乗り越えておらず、大法を修煉して生命が延長されてもなかなか乗り越えられません。ずるずるとこの関を引き延ばし、人間のものを放下しないため、最後に旧勢力の按排によって早くに亡くなってしまうのです。
 
 まず1つの問題を説明します。1人の常人が修煉の道を歩む中で、大法の彼に対する要求は、常人よりも高いのです。多くの同修は交流する時、いつも多くの「方法」に言及します。例えば、どのように正念で他の空間の霊体に対処するのか、どのように生死を放下することができるのか、どのように法理の認識を高めるのか、病理に対する認識などです。しかし、法理はすでに分かっているのですが、実践ではやはり乗り越えられない例がたくさんあります。なぜでしょうか?
 
 私の理解ですが、常人の得られない、健康で病気のない体を得て、最後に完全に清浄で真っ白な体、佛体への昇華に達するならば、常人のすべてのものを失うべきです。病気は常人が得るもので、法理が分かっただけでは駄目で、やり遂げなければなりません。常人のものを放下することができれば神であり、放下することができなければまだ人間です。できたら神で、できなければ人間です。
 
 1人の修煉者が名、利、情を放下する過程は、真に修める弟子ならば皆、生死を放下するような苦しみを感じたことがあると思います。私はかつて情をとても重視していました。いわゆる常人の感情を、修煉で向上していく中でたくさん経験してきました。私は、30歳過ぎで修煉を始めてから、依然としてたくさんの心を放下することができませんでした。何度もこの方面で自分を修め、その中に情欲の問題もありました。
 
 修煉を始めてから6年目のある時、私は情欲の関に遭いました。初めの「感覚」は、肉体に強烈な欲求が生じて、さらに思想業力が常に大脳に反映されました。当時、私の感覚としては、それを得られなければ駄目になるという感じで、その数日間は、一日過ぎるごとに欲求がより「強烈」になりました。私は「乗り越えなければならない!」と決心し、心の中で師父に弟子を助けていただくよう求めました。欲求が最も「強烈」な時、私はそれを気にせず、頑張って家から突破して外へ出ました。私は、街の本屋に入って本を読みました。しかし、この思想業力は取り除かれていなかったので、恥ずかしいことですが、私が手に取って見た本は、専ら男女の事を言っていました。あの時、私は心を鬼にして、本当にその物質を得られないことで体が駄目になり、本当に死んでしまったとしても、それは要らないと思いました。
 
 その後、時間がどのくらい経ったか分かりませんが、私は再び街頭まで歩いて行きました。私は「なんと、自分はまだ歩いている。倒れていないし、死んでもいない。まだ生きている」と思いました。元の良くない考えは家に帰っている途中で消えてなくなりました。取り除かれて、晩になると思い出せなくなりました。私は、師父が私の堅心を見て、私の体のこの層の色欲を取り除いてくださったと感じました。翌日、体全体がさらに浄化された感じがしました。この経験から、私の感じたことですが、実は感情、情欲、病業は皆同じことで、あなたがそれを放下することができるかどうかが大事なのです。たとえ命を失ってもそれは要らないと思い、実践の中でやり遂げることができるなら、それは仕方なくあなたから離れていくしかないのです。
 
 1人の真修者とは、生死を放下することができ、常人のすべてを放下し、すべての恐れる心を放下することができる者です。常に師父が言われたように行うです。個人の悟りですが、あなたは佛になろうと思ったら、もう常人のものを求めてはいけません。病気は常人が得るものです。
 
2011年04月23日


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