■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/04/30/mh021848.html 



久しぶりに自らを誇りに思う気持ちになった

文/中国の大法弟子

(明慧日本)修煉を始めた時のことを思い出すと、心から自らを誇りに思う気持ちは特別なものでした。毎日非常に充実していて、自分が世の中で一番幸せな人だと感じていました。
 
 しかし、10年間の迫害という現実の前で、邪悪のデマや人々からの誤解から恐怖心、法理に対する理解の不足などの原因で、徐々に当時の活気を失い、消極的になりました。自分を弱者、迫害を受けている人だと認識していました。また他人から、かわいそうな人だと見られていると思っていました。これらは、人心を取り除かないために起きた困惑です。
 
 大法の荘厳さと神聖さは永遠に変わらないのです。けれども、なぜ当時、自らを誇りに思う心がなくなったのでしょうか? 環境が変わり、心もそれに従って変わり、巨大な難の前で臆病になり、ちっぽけな人になったからです。根本的な原因は法理に対する理解が浅く、すべての正法の過程は師父が握っておられ、旧勢力がどんなに狂っていても、佛の掌からは出られないことを忘れていました。紛れもなく、迫害を重く見すぎているので、重苦しく感じているのです。
 
 人心が重くなれば、正念が弱くなり、関を突破するのが難しくなります。時間が経ち、まだ突破できないと、どうしようもできないと感じます。
 
 いつまでも迫害のことを考え、落ち着いて学法できず、また、大法に対する常人の認識に留まっていて法理が見えないことがあれば、苦境に陥るに違いありません。修煉者は法理の指導がなれば、一歩も前進できず、常人の中で悩みます。
 
 時間が経つと、知らない間に事を行うとき、消極的になり、押し付けられてやっているような気がします。この状態が良くないと分かっていても、ずっと突破できません。最近になって、大きな変化がありました。
 
 この間、お金を両替して真相紙幣を作ろうとしましたが、いつも、拒否されるかもしれないと監視されるのを恐れています。ある日、突然、銀行で両替するとき、これは良いことではないか、もしその人が私に両替してもらったら、その人は間接的に良いことをしたことになる、なぜ喜ばないのか、もし拒否されても他の所で両替すればよいと考えました。そして、心の負担が軽くなり、以前よりも危険だと感じませんでした。その結果、両替する前に、相手は微笑みながら、迎えてくれました。両替は順調にできました。自分が緊張すれば、相手も緊張します。自分の心が変われば、相手も変わることを悟りました。
 
 その後、資料を配ることはとても良いことだと思いました。人々が真相を知り、済度されることは幾千年待っている衆生にとっての大きな事です。良いことですが、なぜ緊張して落ち着かないのでしょうか。心配するのは人心ではないでしょうか。根本的な原因は残酷な迫害に直面して、ある誤解を生んでいるからです。資料を作り、配り、三退を勧めることを、迫害を受けている原因とその証拠とみなしているからです。これは根本的に観念を変えてないため、無意識に旧勢力が大法と大法弟子を迫害することを認めています。実際、大法弟子がしていることを旧勢力は阻止できません。肝心なのは私たちの心です。私たちが執着心を本当に放棄できたかどうかです。執着心があると、旧勢力が記憶し、一定の程度になると、迫害される可能性があると、天目の見える同修が言ったのを覚えています。
 
 本当に法理に従えば、誰にも動かされることはありません。心性に問題がなければ、何の問題もありません。つまり、迫害を受けることと、資料を作り、真相を伝え、三退することの間に因果関係はありません。ですから、落ち着いて自らを誇りに思ってできます。それは完全に別の状態です。この状態で神聖な事をすると、価値があります。
 
 この法理をはっきりと理解してから、以前よりも無理して我慢することなく、任務を完成するようではなく、純粋な心で行なっています。ですから、自らを誇りに思う心がまた復活したように、修煉を始めた時の幸福感を覚えました。
 
 大法は永遠に変わりません。自分の心が動いて、法から離れているため、孤独感、無力、圧力、心配を感じるのです。法の中に溶け込むことで、自然と正念が増し、大法の威力が感じ取れます。そして、幸福、栄光、誇りを感じるのです。
 
2011年04月30日


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