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安逸心の背後に隠された執着心を探す


文/中国の大法弟子

(明慧日本)私は半年前から自分の修煉を緩め始めました。昔のように法を多く学ばず、朝の集団煉功も起きられなくて休む日もしばしばあります。以前は、発正念の時間を見逃したら非常に後悔していましたが、今は時間を見逃しても気にせず無頓着になりました。そのせいか最近、小さなトラブルが多く、うまく乗り越えられないことがあります。内に向けて探してみましたが、状態は一向に変わりませんでした。
 
 数回のトラブルの中で、師父の与えてくださった啓示により、修煉の道で自分を精進できなくさせている執着心を見つけました。それは、自分がよく修煉してきた、自分の修煉がよくできていると思う心です。
 
 2009年から私は一刻も怠らず、精進して他の同修に追いつこうとしていました。同修の手伝いの下で資料拠点を築き、街頭で真相を伝えることも成し遂げました。修煉の道で勇猛邁進したとは言えませんが、修煉の道で苦しみ、困惑を覚えたことはありません。修煉の素晴らしさと幸せな感覚に溢れ、常に師父が側で悟らせてくださり、見守ってくださっていると感じました。。
 
 しかし最近は、師父の一回一回の啓二を見逃し、トラブルに遭ったとき、それに対処することだけを考え、自分の執着心を深く探すことをしませんでした。トラブルの回数が増えて苦しんでいる私に、師父は一度、発正念の時にある光景を見せてくださいました。私は師父の法会に参加し、師父はみんなに自分の執着心を探させ、私たちが自分の執着心を見つけたら、体から黒い物質を消してくださいました。執着心を見つけた同修に、師父は大きな黒い物質を取り除いてくださいましたが、私は執着心を探しませんでした。私は、長年の修煉を経ているので、師父はすでに私を浄化してくださり、他の同修より黒い物質は少ないと思っていました。しかし師父は私の黒い物質が他の同修より、もっと多いと悟らせてくださいました。私は発正念が終わってからずっと自分の執着心を探し、自分の中にひそかに隠れている恐ろしい心を見つけました。それは自分の修煉がよく出てきていると思う心です。この心が生じてから、私は修煉の道で怠り、自分に対する要求を緩めたわけです。
 
 私の場合、他人と比べることではなく、自分の過去と比べ、今まで行ってきた事を常に考えています。安逸心、自慢する心の裏には、自分の修煉がよくできていると思う心が隠れています。修煉には模範がなく、修煉が終わっていない限り自分には修めるべき執着心があります。師父が私たちを励まされるのは、私たちに自信を持たせるためであって、私たちが慢心し、自慢する心を持って、同修より高く自分を位置付けてはなりません。師父の「初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得ることができる」(『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』)の意味を私は改めて悟りました。
 
 さらに考えると、個人修煉と正法修煉の関係を正しく位置付けていないからです。新宇宙は完全に他人を先に考える無私の理です。多くの生命はまだ真相を知らず、大法に同化されていないのに、自分のことを考える余裕があるのですか? 私たちは早めに自分自身を修正し、正法の進展に追いつくべきで、師父の期待に背いてはなりません。以上は個人の認識です。間違っている所があれば、指摘をお願いします。
 
2011年05月11日

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