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生命の存在意義について

文/中国の大法弟子

(明慧日本)旧宇宙の基点は私(し)に基づいていますが、新宇宙の基点は無我です。修煉者が私(し)を越えることは、とても重要なことです。
 
 私は修煉を始めて2年の新しい修煉者です。学法を始めたとき、私は果位の高低、威徳の多さと少なさについて考え、心が落ち着きませんでした。私が得られるものは少ないと思い、いつも辛く感じていました。しばらくして私は、果位の高さに執着し、もっと高い次元の美しいものを追求することは、現実の名利に執着し、幸せな生活を求めることと同じではないかと悟りました。
 
 毎回この心が表れるとき、このような心を持って学法することは良くないと感じ、頭の中では「考えてはいけません。追求してはいけません。求めずに自ら得るので、今はこの問題に対してどう対処すれば良いかわかりませんが、この考えを修め、できるだけ考えないようにして、まず人心を取り除きます」と考えました。
 
 修煉の中で、果位に執着し、より高次元の美しさを追求することは、私(し)に執着する私心です。私(し)に執着するから、もっとすばらしく変りたいと思い、得ようとします。得ても満足することができず、もっと良いものを追求し、得ることが出来なければ悲しくなり、妄想が膨らみ、嫉妬し、憎しみを抱くなど、良くない心が現れてきます。失うことを恐れて、疑心や妄想に囚われ、損得に執着し、日々の生活が順調にいかないことや、何かを失うことを心配していました。
 
 もし、私(し)に執着せず、他人を第一に思うのであれば、貪欲さや追求心はなく、欲望と嫉妬心もありません。
 
 私の心の中に奥深く隠れていた執着心は、現実の利益や名利を求めなくなった代わりに、徐々に、より高い次元を求め、多くの威徳を求め、よい高い果位を求めるようになりました。これは、利益を追求していることと同じではないでしょうか? しかもより高い神聖な物を追求して得ようとしています。自分の執着心がはっきりと分かった後、私は夢から覚めたかのように感じ、長い間呆然としていました。
 
 「金銭に執着するならば、財を求めて偽って修め、教を壊し、法を壊し、一生を空しく過ごして、佛を修めてはいないのです」(『精進要旨』「修める者の忌」)。この言葉はまさにこの執着心を指摘しているのではないでしょうか。私はその次元に達すれば、自然と法が展開されることを心得ました。
 
 ある日、私が使っている法器に「必ず私と仲良く仕事をし、師を手伝い、法を正す使命を完成してください。これはあなたの使命で、あなたにとってこの上ない栄光です」と話しかけた後、ふと思いました。この法器が使命を完成することで得る栄光は、この時期に生命が存在する意味でもあります。これと比べて大法弟子はどうなのでしょうか? 
 
 師を手伝い、法を正す使命を完成することは大法弟子の栄光です。大法弟子の使命は師を手伝い、法を正すことです。私たちが下へ下へと降りてきたのは、今日大法を実証し、私たちの使命、誓約を果たすためではないでしょうか。使命を完成させることは、私たちが期待し、追求していることではないでしょうか、これこそ生命が存在する意味です。
 
 大法弟子として、私は師を手伝い、法を正し、衆生を救い救度するために存在しているのです。私たちが追求しているものは、どうやって大法を実証し、衆生を救い救度するかであって、自分をどのようによりよく変えるかではなく、まして名利を追求することではありません。
 
  しかし、悟ったことと実際に行うこととは大きな差があります。私はまだ多くのことを修めなければなりません。「事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」(『洪吟』「實修」)。
 
 正法は最後の最後になっています。時間はより早くなっています。怠けてはなりません、もっと精進することで、三つのことをしっかりと行い、もっと多くの衆生を救い救度することができます。これこそ、師父の慈悲なる苦しい済度に責任を持つことであり、宇宙の期待に責任を持つことでもあるのです。
 
 個人の悟りなので、間違っている所があれば、指摘をお願いします。合掌
 
2011年05月12日


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