着実に修め、法を正す道をしっかり歩む(一)
(明慧日本) 数年来の修煉を振り返って見て、師父の広大な慈悲がなければ、私のように意気地がない弟子は今日まで辿り着くことができなかったと思っています。この数年に現われた様々な問題は、まさに「修」を忘れたことが原因です。私は法をずっと勉強してきましたが、心が入っておらず、法と照らし合わせて自分を修めていませんでした。師父は『更なる精進を』の中で私たちに「この面に関して、目を自分に向けて自分を修めるようにしてください。 現在からこのように行い、自分を修めるようにしてください」と教えてくださいました。これは法を正す時期に、私たちが最も基本的なものを忘れないように指摘されたのだと思います。以下に、自分を修めることについて、私の認識を申し上げたいと思います。
一、自分を修める
数日前、私はA市の同修たちと交流しました。私は以前、A市で仕事したことがあり、A市の同修とも数年間協力したことがあります。同修は「前回、あなたは帰る前にB市での全体発正念に参加すると言いましたが、なぜしなかったでしょうか」と指摘しました。私は恥ずかしく思い「私は口ばかり達者で実際に行動しない人を好まず」(『2010年のニューヨーク法会での説法』)を思い出しました。
表面的な原因から見ると、私はB市での仕事が忙しく、仕事の後に真相を伝える文章を書いているため、長時間の発正念は、仕事をしていない年配の同修に多くやらせるべきだと思い、参加しませんでした。
当時を詳しく思い出すと、その時期、私の修煉状態はあまり良いとは言えず、学法のときに眠くなり、正時に発正念を行えず、睡眠時間が長く惰眠をむさぼり、真相を伝える文章もはかどらず、個人修煉でよく過ちを犯し、妨害も多かったのです。
同修は「皆が正念を長く発しているので、邪悪はあちこち逃げまわっています。しかし、あなたが正念を発さなかったから、邪悪はあなたのところから逃げ出しましたよ」と指摘しました。私はなぜそのような状態に陥ったのかを考えました。表面的には、私は自分に特別な事情があると考え、て発正念を重視せず、大法弟子の全体行動に参加しませんでした。しかし、内に向けて探してみると、根本的な原因は自分を修めていないことでした。
実際、法を正す修煉の中で、いかなることも修煉の過程なのです。私は、頭で考えるだけで行動しなかったことで、長い間自分を真に修めず、「真・善・忍」に基づいて自分に厳しく要求せず、良し悪しを区別できなくなり、良くない思考と観念を自分のものとしていました。かつて私は、長時間発正念の重要性を認識し、一人で長く正念を発していたことがあり、他の同修にも長時間発正念を勧めたことがあります。その時私は、法を用いて他人に要求し、他人を修めさせましたが、自分を修めていませんでした。
この2年の修煉を振り返って見ると、私は人心と執着を取り除かず、特に色情の面において重視せず、何度も見てはいけないものを見て、繰り返し過ちを犯しました。自分を修めず、自分を修煉者とみなさず、悪に染まった世間の中で惑わされました。他の同修の色情の執着を見るとき、私にそれがはっきりと見え、もし私がその同修と交流するなら、私は一つ一つ筋道だてて問題を指摘できるだろうと思います。しかし自分の場合、その時は後悔するのですが、なかなか取り除くことができませんでした。1つの思考、1つの念を漏らすことなく自分を修められなかったため、私は旧勢力が按排した魔難の中からなかなか抜け出すことができませんでした。
内に向けて探し始め、自分を修め始めたとき、私の心の中は感謝と喜びに満ち溢れました。B市に戻った後、私は着実に修め、何をやるときもしっかりと行うことができるように努力しました。私は全体の発正念にも参加し始め、正念を発しても発さなくても良いと思う考えを改め、これを自分の責任と考えるようになりました。最初は難しいと感じましたが、これは自分を修めることだと思い、この2日間で状態が良くなりました。また、私は同修の前で、以前自分が色情の面で犯した過ちを告白しました。1つの思考、1つの念からこれを取り除き、色情の念が現われていないときも気を緩めず、正念でしっかり色情を取り除き続けば、以前のように執着が多く積み重なり、なかなか関を越えられないようにはならないと思います。
私は自分の本性が真・善・忍に同化することを望み、師父が希望された「純朴で足が地に着いた」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法のよう』)大法弟子になることを望んでいます。、実際、世間のいかなる良くない考えや観念、様々な執着に対して、私の本性は反感を持ち、排除したいですが、業力や物欲、さらにこの険悪な世間の中で、私たちは随時に汚染され、包み込まれてしまうため、本性をなかなか顕すことができなくなりました。しかし今、私は分かりました。正念をよく保つことができれば、自分の本性が自分自身をコントロールすることができ、絶えず法に同化し続け、法に照らして自分を修めれば、始めて修と言うことができるのです。
(つづく)
2011年05月13日
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