湖南省:10年の迫害を受け高齢の修煉者が死亡(二)(写真)
(明慧日本)2002年の初め、謝さん夫婦はまた理由もなく、娘とともに強制連行された。2歳の孫娘は大泣きをし、現場にいた民衆らが、警官らによい人を陥れてはいけないと非難すると、やっと謝さんの娘を放した。しかし、謝さん夫婦は車に入れられ、警官は、車の中で謝さんの頭部を酷く殴った。夫婦とも15日間拘留された。2002年2月15日のお昼、息子と娘らが両親のところで、食事をしているとき、十数人の警官らが突然飛び込んで来た。両親はまたもや居場所がなくなった。
2003年8月22日、譚さんは長沙友誼ショッピングセンターで、長沙市天心区公安支局政治保護課の付勝文などの警官に強制連行され、十数時間にわたって拷問され、自白を強いられた。翌日、長沙市留置場に送られ、「門板足かせ」という拷問を受けた。人をドアの大きさ厚さの板の上に横倒しにし、板の上に設置された手錠と足枷で手足を固定する。体は長い間、同じ姿勢を保たなければならなかった。2004年4月譚さんは3年6カ月の判決を言い渡され、同年11月に湖南女子刑務所に送られた。譚さんは長い間、睡眠を剥奪され、奴隷のように労働させられた。肺部に穴が開き、物を食べられなくなり、全身が無力な状態下で、毎日25キロのソラマメの皮をむく作業をさせられた。冷たい水の中に浸しているソラマメを、ナイフで一粒ずつ両端の皮をむかされた。製品名は「玉帯のソラマメ」と呼ばれる。
2005年9月譚さんは再び危篤状態に陥ったため、重病のため服役中の一時出所が許された。彼女の肺にはすでに穴が開き、肝臓の機能はほとんど衰弱し、全身が蝋のように黄色くなり、血を吐き、物が食べられず、毎日採決して検査をしていた。足はむくんで歩くことができず、骨と皮ばかりに痩せこけ、気息奄々の状態だった。40歳の息子はこの悲惨な母親の様子を見て、大声で泣き叫んだ。しかし、警官はそんな状態の譚さんの娘に、「もしあなたの母親が死んだら、刑務所に知らせないといけない」と話した。
譚さんの幼い孫娘は不安定な状況下で、常に強制連行・家宅捜査を目にし、驚きのあまり全身が震えたこともあった。子どもは警官を見ると非常に怖がり、警官は悪者だといっている。
十数人の警官が侵入して、強制連行し、判決を言い渡す
2007年7月13日の夜中23時すぎ、謝さんは長沙市天心区井湾子鉄12局の寄宿舎に住んでいたところを包囲された。翌日、長沙市天心区国保(国家安全保衛)大隊の大隊長・付勝文ら、および湖南省女子刑務所の周嬋、劉センなどの十数人の警官が謝さんの家に押し入り、謝さん夫婦を強制連行した。警官らは2人に手錠をかけた。謝さんはとてもきつく手錠をかけられたので、左手の血が洋服を赤く染めた。譚さんは直接湖南省女子刑務所へ送られた。
謝さんは長沙市留置場へ送られて、5カ月近く監禁された。その間、謝さんは2回気を失い、朦朧としている中で、一人の医者が「薬物を注射してはいけない」と言っているなかで、もうひとりの医者がむりやり注射しようとしている話を聞いた。その後、彼の身体はますます酷くなり、あとになって肺結核になり、記憶力が酷く衰退した。長沙市留置場はやましい人が常にびくびくするように、責任をとることを恐れ、2審判決で4年8カ月の刑を言い渡され、慌てて2007年12月6日早朝の3、4時に謝さんを湖南省常徳津市刑務所内に位置している湖南第二収監派遣センターに送った。引継ぎをするとき、謝さんの身体状況が収監条件に符合せず、送る側と受け取る側はとても長い時間争っていた。
謝さん夫婦は強制連行された後、子供らは両親に会うことができず、手紙も受け取れなくなった。そして、いわゆる、法律手順の全過程について、謝さん家族はなんの情報も手に入らなくなった。2007年12月6日になって、家族はやっと裁判所から判決書をもらった。謝さんの娘は直ちに留置場を訪れ、父親に面会しようとしたが、許可されず、父親も行方不明になった。家族が絶えず問い合わせした結果、最後に常徳市第二収監派遣センターの電話番号を見つけた。相手は「あの肺結核の人ですか」と聞いてきた。その時になって、家族はやっと、父親が迫害されて肺結核になっていることを知った。2007年12月20日、謝さんの家族は湖南省第二収監派遣センターで、やつれ果てた謝さんに会うことが出来た。
2008年2月、謝さんは常徳武陵刑務所に不法に監禁された。武陵刑務所は謝さんの身体状況を無視して、労働改造を拒否しているという理由で、謝さんを厳しく管理し、3カ月間家族との面会を許可しなかった。家族が重病のための服役中の一時出所を求めたが、刑務所は「四書」を書くことを条件に、謝さんに「真・善・忍」に対する信仰を放棄させようとした。武陵刑務所の第5監禁区域3中隊の教導員・段某は、2009年1月9日に謝さんの家族に対して、謝さんは重病のための服役中の一時出所条件に完全に符合するので、謝さんが「四書」さえ書けば、すぐに帰宅させると言った。2008年12月26日、謝さんの家族はわざわざ長沙から武陵刑務所にいき、重病のための服役中の一時出所の申し込みをしたが、武陵刑務所の刑法執行課の警官・易某は「だめだ」と答え、刑務所で人が死ぬことは普通のことであり、ここには十数人の法輪功修煉者を監禁していて、彼らの隊にも3人がいて、また75歳の人もいる、と言いふらした。
2009年2月まで、謝さんは常徳武陵刑務所で1年間不法に監禁され、肺結核、腰椎盤ヘルニア、高血圧、脳と頸椎の動脈硬化を患い、体の状況は極めて悪化した。全身がむくみ、体は震え、吐き気がし、胸痛と、腰を伸ばすことができず、両脚に力が入らなくなり、歩くにも杖で体を支えなければならず、下の歯は、2000年に永州の警官に殴られて緩み、すでに全部脱落して噛むことができなくなっていた。
2010年2月24日、謝さんは常徳武陵刑務所に監禁されているとき、危篤状態に陥り、常徳市第五病院に送られて緊急手当てを受けた。病院は謝さんの家族に危篤通知書を発行した。刑務所は電話で謝さんの家族にこれについて通知した。翌日2月25日、謝さんの妻は常徳市第五病院に駆けつけた。医者は謝さんの病状についてこう紹介した。高血圧(3級、ハイリスク)、高血圧、心臓病、心臓拡大、心臓衰弱、高血圧、胃病、慢性腎臓機能不全(尿毒症)、肺水、泌尿の結石、両腎臓に水が溜まるなどの多種の疾病を患っているため、必ず入院して緊急手当てを受けないといけない、と。
家族が謝さんに会った時、謝さんは頭から足まで全てがむくんでいて、全身に治療器具が繋がっていた。鼻の穴には酸素吸入用の管、心臓にも機器、両手には点滴、両足にも機器が繋がっていて、また尿袋もつけていて、自分自身では動くことができず、夜になると警官により足枷でベッドに固定されていた。
3月1日、謝さんは2人の警官により、長沙省湘雅附一病院に入院させられて、治療を受けた。検査の結果、慢性腎臓功能不全(尿毒症)、前立腺増殖症、急性尿閉、冠状動脈性硬化症、高血圧3級(きわめてハイリスク)、前立腺癌(GIeasom4+3)と宣告され、また癌が全身の骨まで転移していることが分かった。医者は「手術できない」と言った。
謝さんは「真・善・忍」に従って良い人になるために自分の信念を守り、これほどまでに残酷に虐待された。中共の刑務所は元気な人を気息奄々になるまで迫害して、やっと重病のための服役中の一時出所の名義で帰宅させた。謝さんは病床で1年以上苦しんだ後、2011年4月12日の早朝4時35分にこの世を去った。
(注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)
(完)
2011年05月16日
(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/5/7/124979.html)
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