中国共産党の迫害を総括的に論じる(上)(三)
(明慧日本)明慧ネットは2011年4月8 日、武漢市武昌区に住む彭燕さん ら5 人家族が家をなくし、肉親を失う悲惨な目に遭ったことを報道した。彭さん一家は、家族全員が法輪功修煉者で、和気藹々とし て睦まじい家族であった。
| 彭敏さん、彭惟聖さん、彭亮さん、李瑩秀さん、彭燕さん一家 |
中共(中国共産党)が法輪功 に対する迫害を開始してからの11年間に、5 人家族の内、次男の彭敏さん、母親の李瑩秀さんが迫害によって相次いで亡くなった。 また、長男の彭亮さんは長期間不当に拘禁されており、父親の彭惟聖さんも長期間の迫害で精神異常になってしまった。末娘の彭燕さんも監禁と拷問を受け苦しめられた……写真の中の笑顔はもう永遠に過去の記憶になった。
次男の彭敏さんは 、武昌青菱留置場に不当に拘禁され、その後、再び不当に逮捕された。監禁されている期間中、彭敏さんは苦しみを受け尽くした。警官は受刑者に指示し、彭敏さんに暴行を加えさせ、彭敏さんは第5 脊椎の粉砕骨折、頸椎圧縮による骨折、四肢の骨折、高度の麻痺 を起した。その後、彭敏さんは武漢市第七病院で死亡し、遺体は2001年4月6日午前10 時ごろ、公安によって強制的 かつ秘密裏に火葬された。彭亮さんと李瑩秀さんも逮捕されて青菱紅霞封閉洗脳班に入れられ、「転向」を強要された。まもなく李瑩秀さんは武漢市第七病院で、口封じのために殺された。彭亮さんが受けた、7 回 の逮捕、その後の拷問は筆舌に尽くし難い。さらに、彭亮さんは2011 年に再び 逮捕され、警官は彭亮さんを起訴しようとした。父の彭惟聖さんは迫害によって精神異常になった。
彭燕さん(1977 年生 まれ) は 一家の末娘である。2000年2月28 日、糧道街派出所に よって2回目の逮 捕を受け、宝フウ路女子留置場に拘禁された。所長ら3 人が来て彭燕さんに「保証書」を書くように迫ったが、 彭燕さんが断ったため、受刑者に指示し、ビニールスリッパの底で彭燕さんの顔を殴打させた。彭燕さんは1カ月以上ずっと手錠をかけられたことが2回も ある。同時期に、母親の李瑩秀さんが迫害で亡くなった。彭燕さんの家族が迫害で死亡したという情報が国際社会に暴露された後、中共は情報源を断ち切るため、彭燕さんを「転向」させようとした。刑務所の警官の話によると、「上層部は必ず短期間の内に彭燕さんを『転向』させるようにと命令した」という。
彭燕さんは迫害に抗議し、罪を認めず、「囚人」の身分を 認めず、囚人札をつけず、監獄の規定も暗記しなかった。彭燕さんは罰として毎日少なくとも20 時間 、直立不動の姿勢を強制され、多くても2 時間しか寝られなかった。多くの場合、 彭燕さんは完全に睡眠を剥奪され、1日中罰として立たされ続け、寝ることが許されないばかりか、警官らによって刑具すらつけられた。また彭燕さんは、腕を後ろに回されて手錠で鉄柵のドアに吊るし上げられ、足は地面に着かず、つま先立ちしかできない状態で放置された。身体は下へ向かって90 度に曲げられ、 体を動かすことも出来なかった。また、鉄骨の2 段ベッドの上に一晩中吊 るし上げられ、腕は後ろ手に回されて縛り付けられた。このような拷問は2カ月も続いた。
この間、警官は「包夾」( 包囲と攻撃 を意味する人員)40人を配置して彭燕さんを迫害した。毎日「包夾」達は三つのグループに分かれて、少なくとも3人の「包夾」が彭燕さんのまわりを寸歩も離れず、多い時は7、8人がいて、何度も彭燕さんを罵ったり殴ったりした。2002年5月、監獄の610 弁公室の程智、孫躍紅、蒋春などの警官らは 、彭燕さんに対して系統的に洗脳、迫害を行った。また、不断に科される重労働、相次ぐ手口を変えた様々な洗脳手段などが行われ、2002年8 月 には、刑具をつけられた上、密室に1 週間 も監禁された。長時間鉄のドアに手錠で縛り付けられていたので、彭燕さんの腕、すねと足は腫れて血管が浮き上がった程だという。
(完)
2011年06月01日
明慧ネット:jp.minghui.org
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