■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/06/01/mh021370.html 



再び寛容を論じる

(明慧日本)寛容とは何でしょうか? 私個人の悟りでは、同修の足りないところを見ても心が動じることなく、執着せず、逆に内に向けて自分を探すことです。同修は、この問題に対してまだ認識していないかもしれません。このような時、誠意をもって同修と交流し、相手が受け入れてくれれば一番いいのですが、受け入れてもらえなくても心が動じてはいけません。いずれ将来分かるようになると思います。修煉は自分を修めることであり、自分が悟ったことで他人を律してはいけません。
 
 私の夫は非常に怠惰な人です。家事を嫌い、ベッドに横になってテレビを見ることが好きです。子供の面倒も見ずに、何か問題が起こるとすべて私の責任だと罵ります。すべてのこと、さらに彼の両親のことも私が面倒を見なければいけません。最初はとても不満に感じ、人間の道理で彼と話しました。どんな人が良い人か、よい人がどんな行為をするかなどを話しても全然聞いてくれませんでした。私は彼を変えようとしており、彼が変われば私は楽になると思いました。その後、私は修煉の目的は何なのかと考えました。修煉は衆生を救い済度することです。私は彼を変えようとせず、真善忍で自分を律し、自分を変えることにしました。楽をしようと横になり、疲れたら何もやらなくても彼に好きなようにさせました。彼の欠点と不足を見ず、彼のよいところを見るようと努力しました。本当に彼のために考えました。しかし一つの原則として、彼は私の信仰を尊重し、私に間違いがあれば指摘してもいいのですが、私の信仰の邪魔をしてはいけません。こうして内に向かって探すことで彼はすっかり変わり、私を支持し、法を実証することにも協力してくれています。
 
 姑は田舎に住んでいるため、周りに大法弟子がいません。ここ数年来、真相資料も少なく、まして直接真相を伝えることは困難でした。私は、もしそこに年配の修煉者が一人でもいれば、せめてそこの衆生が真相資料も見られるのにと思いました。私が住んでいるところに、1999年より前に大法と出会って協調人をしていた年配の修煉者がいます。私と知り合ってから、彼女は「私はいつも自分は尾行されている」と言い、それを非常に光栄なことだと自慢していました。皆でこの点について、彼女と交流しましたが受け入れてもらえず、私は非常に不満を感じていました。その後、姑の家から戻ってきたときにその同修と会い、私は「もしこのお婆さんが姑の村に住んでいたら周りの衆生が救われるのではないか」と思い、修煉者は貴重であると悟りました。足りないところがあっても、彼女は修めています。足りないところがあるのは当たり前のことで、それは人が修煉しているからです。返本帰真こそ貴重であり、十方世界を震わせ、誰を見ても救いの手を差し伸べ、条件なしで助ける、これが大覚者の修煉者に対する態度だと思います。
 
 我々は往々にして他人の執着に執着し、この修煉者はどうしてこうなのか、あの修煉者はどうしてああなのか、早く向上してほしい、早く良くなってほしいと思い、自分自身内に向かってを探すことができませんでした。どうして他人の執着を自分が見たのかと、逆に自分を探し、他人の足りないところをみて自分を探すことができれば、本当に自分が向上できるチャンスだと思います。
 
 正しくないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。
 
2011年06月01日


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