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遼寧省の女子刑務所で受けた拷問

文/遼寧省の法輪功修煉者・趙会軍

(明慧日本)私は、2007年の12月28日に、遼寧省の女子刑務所に拘禁されました。当時、第9監区の元行政課長・李鶴チョウが私への迫害を直接指示し、監視役の受刑者は、沈静超(2008年12月に出所)と楊冬梅でした。
 
遼寧省女子刑務所 

 私は、刑務所規則と、法輪功を中傷する嘘の資料を学ぶ事を拒否したため、拘禁3日目から拷問を受け始めました。午前中、監視役の沈静超は、靴底で私の頭を叩いたり、私の膝を、足で蹴ったりしました。午後には、楊冬梅が私に対して、激しく暴力を振るいました。昼間、受刑者達が作業に出かけた後、2人は私に拷問を行いました。私は、しゃがむ姿勢を維持し続けるよう強いられ、夜中の2、3時まで強制されました。後日、一晩中しゃがむ姿勢を強制された他の同修から話を聞くと、楊冬梅は、私を監視する前に、他の法輪功修煉者の腕を折ったそうです。この事からも、楊の残忍さが分かります。
 
拷問の実演:暴行

 彼らが私に拷問を行った日から、私は断食を始めました。1週間後、私は全身が赤くなって、歩く事が困難になりました。それにもかかわらず、彼らはひっきりなしに私を罵り、楊はリーダー格である文連英と共に、私に灌食を行いました。当時、私の頭部には傷があり、血のかさぶたが髪の毛にくっつき、血圧は50まで低下していました。その後、私は病院に運ばれて、緊急措置を受けました。診断の結果、私の心臓と肝臓はひどく衰弱している事が判りましたが、5日後、私は刑務所に戻されました。
 
 私は再び、刑務所の独房に閉じ込められました。沈静超は修煉を放棄する内容の署名を強制しましたが、私が拒否したため、3日後に受刑者の姜平が、沈の代わりに来ました。姜は、遺体をばらばらにした殺人犯でした。姜本人の話によれば、重慶市委書記の薄煕来(はく きらい)に賄賂を贈ったため、1回目の審判では死刑を言い渡されましたが、2回目の審判では執行猶予に変り、金で命拾いをした、と言っていました。姜は、体重が80キロ位あり、かなり険悪な顔つきをしており、手口が悪辣でした。警官は、このような人物を利用していました。
 
 2008年の1月19日、姜平は、文連英に命じて、大きな鉄の箱に水を入れて凍らせました。そして私を裸足にし、風の当たる場所にしゃがませ後、私を2人で無理やりテープで球状に縛り上げて、口を封じました。それから、私を氷の箱の中に押し込み、私の体に冷水を浴びせました。彼らは服が乾くたびに冷水を浴びせ、私に何度も冷水を浴びせました。彼らは、それでも私がまだ署名しないのを見て、今度は、私の服を全て脱がせて冷水を浴びせ、私の髪を掴んで、地面に顔を押し付けたり、ベルトで殴打したり、革靴で私の足指を踏みにじったりしました。彼らは、自分達が疲れ果てるか、私が気絶するまで、拷問を行い続けました。ある日、彼らはモップの持ち手で、私の腟の中をかき混ぜると言い出しましたがモップは見つからず、事なきを得ました。このように、私を苦しめた姜平は、「嘔吐や下痢が止まらず、何日も治らない」と私に話しました。私は、「人間性を失った悪の報いです」と、彼に教えました。すると姜は、「刑務所の中の人間性って何だ? お前を打ち殺しても、1匹のアリを踏み潰したようなものだ。お前は、自分を何様だと思っているんだ!」と卑しく笑いながら、私に言い放ちました。
 
拷問の実演:球状縛り

 彼らは毎日このように、少なくとも一日に2、3 回、私に拷問を行い、夜になると、独房の入り口のパイプに、私を手錠で固定し、他の人に監視させました。
 
 その後、姜平と劉春珍は、再び私を重労働に従事させました。私の体は極めて衰弱し、正常に歩くことができず、腎臓の機能はひどく衰えてしまいました。私はいつも失禁してしまい、手の指と足指は踏みつけられて、自由に動かなくなってしまいました。物をしっかりと掴めず、眠れないほど痛み、寝返りが打つことができず、トイレに行っても、しゃがむことができませんでした。また、いつも頭痛がして、物を見ると目がチラチラして、左腿、左足、腕、手などの筋肉は、明らかに萎縮し、冷たく感じて感覚がなく、心拍は、いつも毎分百数回に達していました。
 
 現在、姜平と楊冬梅は、依然として法の網をくぐり抜け、悠然と過ごしています。
 
2011年06月03日


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