■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/06/23/mh241832.html 



同修の褒め言葉にどう向き合うべきか

文/中国の大法弟子

(明慧日本)最近、私を褒める同修が多くなりました。はじめは、自分がよく修煉できたからと思っていましたが、だんだんそうではないと感じるようになりました。師父は『精進要旨』の「修める者はおのずとその中にいる」の中で、「遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです」と説かれました。それはすべて私に対する試練です。それでは、なぜ私はそんなに多くの試練に遭遇したのでしょうか。落ち着いて、内に向けて探したら、自分にいろいろな問題があることが分かりました。
 
 まず、私は同修の前で自分の顕示心が強いことが見つかりました。良いことをしたら、すぐ同修に教えたくなり、良くないことをしたら、それを隠して同修に知られたくなく、名利心が強いのです。修煉は、自分のためですから、大法に基づいて、自分がよくできたかどうかを判断すればいいのです。同修に知ってほしいという心理はよくありません。一方、同修の前では、しっかりと修めていない自分を隠して、よい自分だけを見せようとするから、同修の褒め言葉という試練を招いたのでしょう。
 
 二つ目は、強い歓喜心です。同修に褒められると嬉しくなり、逆に、ほかの同修が体験を話す時に、たいしたことではないという気持ちが出てきます。振り返ってみると、それは強い歓喜心と嫉妬心だと分かりました。
 
 三つ目は、よく、長々としゃべることです。心性を重視すれば、学法をするときに、道理を認識しやすいのです。しかし、私はどこでも、どの同修に対しても、その認識を話し合います。もともと、大法を理解するのはいいことなのに、自分の執着心から、自分のよさを顕示するだけでなく、ほかの同修のことも評価しがちです。その評価が正しいかどうかにかかわらず、その行為は自己を実証しようとするもので、自己を顕示するための執着心です。
 
 四つ目は、裏でほかの修煉者の不足を議論しあい、無意識に他人を見下し、自己を高めようとする心理があります。もちろん、皆が回り道をしないために、同修たちの問題を見つけていると口では言います。しかし、実際に大法を利用して、自分の執着を隠そうという悪い考え方がないとは言えません。
 
 このような執着心があるから、私は欠点がないように見え、たくさんの褒め言葉を得ました。しかし、隠した良くないことがあると認識できたら、本当に自分は悪い人間だと感じました。もし、それを認識できなければどうなるかと考えたら、冷や汗をかくほど怖いのです。
 
 私はこれからどうすべきかと考えて、明慧ネットに掲載された文章を参考にしながら、自分の考えをまとめました。
 
 私の周りは、ほとんど迫害の前から修煉してきた古い学習者ばかりで、法に対する認識が比較的深く、交流しないと理解できないわけではありません。従って、自分がよくできたことと悟った道理などは、必ず同修と話すこともありません。新しい学習者が多い場合、適度な交流は必要でしょう。しかし、しっかりと法を学ぶことです。時間が非常に重要な現在、たくさんの時間を利用して修煉体験を話して交流するより、自分の長所を利用して、お互いに協力し合って法を実証すべきでしょう。
 
 自分の行為をよく法に照らして、同修たちの長所に目をとめ、自分の不足を考えれば、自分がまだ悟っていないこと、悟っても良くできていないことがたくさんあると分かります。そうなると、自分を褒める言葉が異常に多いこともなく、他人より自分が良く修煉できたという心理も存在しないはずです。このように、自分の執着心を取り除いたうえで、褒め言葉に向かい合うべきだと思います。
 
 個人的な考えで、次元の限りがありますので、不足のところがあれば同修の慈悲なる指摘をお願いいたします。
 
2011年06月23日


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