魔難を乗り越えるときに肝心なのは心性を高めること
(明慧日本)修煉の道でたくさんの魔難に遭います。乗り越えられるときもあるし、なかなか突破できないときもあり、甚だしきに至っては、邪悪に命を奪われてしまい、執着が大きくなり、世間の名利情に執着してしまう時もあります。私自身も病業と名利の難関に直面した経験がありました。乗り越えるのは容易なことではありませんでしたが、命の危険を前にして、最終的に人心を放下し、自分を修煉者の立場に立たせ、やっと乗り越えることができました。
「病業」についていえば、何年も乗り越えられず、最後に難も大きくなって、命が危険な状況になり入院しましたが、退院したときの検査結果は入院時と同じで変わりませんでした。最終的にやはり学法することによって、同修の助けのもとで、生死を放下して、師父を信じ、やっと乗り越えることができました。
名利の難関を乗り越えるのも大変でした。当時、名利に執着しながら、大法のことも放下することができず、勤め先で常人の方法で邪悪と戦い、進学を選ぶことによって、名利に大きな損失はありませんでした。邪悪の迫害からは逃れましたが、名利心を取り除いていないため、難関はまだ続きました。卒業後、仕事を探し続けましたが、一年あまり見つかりませんでした。一回一回の試練のたびに、一回一回学法して心を修めることによって、基本的に名利心を放下でき、真に修煉者の角度から名利を見直すことができました。その後、家庭、社会、経済の面からの圧力は相変わらず減少してはいないのですが、心の中には圧力がなく、常に大法を修煉する幸せを感じており、憂いも心配もない心境でした。このとき、仕事のチャンスが私のところにやってきました。しかも、なかなかいい仕事でした。
今日になって感じるのは、大法を修煉することの幸せです。会社では同僚と心を開いて接し、とてもいい関係になっています。それは知恵が開いているので、常に問題を解決する肝心のところで方法が見つかるからかもしれません。たまに圧力を感じる時もありますが、すぐに内に向けて探して、やはり人心が生じると、それを取り除き、また気楽になります。人心さえ放下できれば、大法を修煉することはとても幸せなことです! 人心さえ放下できれば、本当に想像できない展開が、一つ一つ現れます!
どうやって、難関を乗り越えられるのかについて、長い間ずっと同修の間で話題になっています。例えば、病業を乗り越える問題ですが、邪悪はこれを利用して一部の同修の命を奪ってしまいました。一部の常人、同修に至っても疑問が生じて、大法を認める常人さえ助けてくれた大法が、どうして同修を守れないのかと言うのです。私の個人の認識では、大法は同修を守れないのではなく、常人と修煉者に対する大法の要求は違うからだと思います。もし、同修が真に自分を修煉者として見なすことができて、人心を放下できたら、大法は必ずその人を守るし、なおさらその人自身も自分を守れるようになります。常人に対しては、大法のよさを認めれば、大法はその人を助けるようになります。常人を量る基準は人間として残されるかどうかにあるので、大法さえ認めれば、世間を正す時期に残す基準を満たしたことになるのです。しかし、大法を修煉する人は、修煉者の基準を満たさなければなりません。法を正す時期の大法弟子はなおさら、将来新しい宇宙の偉大な神になり、宇宙を管理する法を正す神になるので、神の基準で要求しなければなりません。
大法弟子は、大法を利用して常人の中での生活を良くするのではなく、世間の常人の環境を利用して修煉しているのです。長期的に魔難から脱出できない同修は、本当に自分に真剣に問いかける必要があります。自分は大法を利用して常人の生活をしているのか、または常人の環境を利用して大法を修煉しているのでしょうか。
もし佛教のように、世間のすべてを放下してから修煉しなければならないのであれば、自分はまだ修煉するのでしょうか? 私たちは世間の中で生活していますが、それは私たちに大法を実証し、人を救い済度する使命があるからです。世間の生活に対して、私たちに恋しい心があってはいけません。でなければ、円満成就のとき、恋しくて去っていきたくないかもしれません! 真に自分を修煉者の立場に立たせたのでしょうか? 本当に世間で出会った良いことも悪いことも修煉の機会で、良いことだと見なしたでしょうか? もちろん、世間に身を置いて、心が全く汚れないことは不可能ですが、ただし、難関を乗り越える肝心なときに、心性が基準に達しないといけないので、あいまいな状態では乗り越えられません。
大法の修煉を始めたとき、大法を認識する過程を与えられて、多くの人は病気を治す心、あるいは他の心を抱いて大法の修煉に入りました。しかし、今、大法弟子を円満成就させようとするときに、相変わらず自分を修煉者として見なさず、人心を放下できなければ、それではいけないでしょう。弟子たちがいくら精進しなくても、師父はやはり私たちを置いていかれたくないのです。しかし、神の基準を満たさないと、神にはなれないのです。もし、大法弟子があまりに良くできないと、旧勢力は口実を見つけて、迫害を行なってしまいます。
魔難を乗り越える肝心なことは、やはり自分の心性を高め、人心を放下することにあります。真に自分を修煉者として見なして、修煉者の基準を満たすなら、大法はあなたを守ることができ、魔難から抜け出すこともでき、大法を修煉する幸せを感じることができます。
2011年06月23日
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