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内に向けて探し、着実に修める(二)

(明慧日本)
 
 一、表面に留まり、しっかりと内に向けて探さず、己を修煉しなかった
 
 私は常人の時、顕示心と自我を実証しようとする心がとても強く、修煉を始めてからも、これらの心を取り除くことがなかなかできず、時には自分は非凡であるとうぬぼれて、他人を見下してしまいました。また、よく他人のことを、間違って悟っており、法に符合してないと決め付けていました。「これはただ、あなたの次元での法に対する認識です」と言って、相手の悟りを否定していました。私の法に対する認識は、私のいる次元での認識であり、もっと高い次元の理は見えるはずがないのに、私は他人の認識が間違っていると指摘していました。他人の間違いを目にしたら、私は彼らのために焦り、彼らが間違いを起こし、間違った道を歩むことを恐れていましたが、明らかに自分の方が「他人より上」という心による認識でした。
 
 他人に自分のアドバイスが受け入れられなかったとき、自分の意見に固辞することなく、自分の内に向けて探し、自分にはどんな問題があるのか、どうしてこの出来事が私に現れたのか、私のどの心を取り除くためなのか、と考えるのではなく、引き続きその人にアドバイスを続け、他人の足りないところを暴露していました。しかも、このようにするのは、他人に配慮し、その人を助け、大法を護るためであると思っていました。師父の「日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」(『転法輪』)という説法を忘れていました。口では「問題にぶつかったら、内に向けて探す」と言いながら、実際はその通りに行えず、それらの心を取り除くことができず、それらの物質は残っていました。
 
 二、どうやって修めるかを知らず、大法の仕事を修煉と見なしていた
 
 私にはかつて、一つの間違った認識をもっていました。つまり、7.20以前は個人修煉ですが、7.20以降は全面的に師に手伝って法を正し、衆生を救い済度することが重要なので、個人修煉を疎かにしてもよく、大法の仕事さえすれば、修煉していることになると思っていました。私は人々に真相資料を配り、真相を伝えれば、次元が向上し、功を伸ばせると思っていました。実際、真相を伝え、人を救うことは法を正す時期の大法弟子の使命であり、責任であるので、しっかり行うべきことですが、それは修煉の代わりになるわけではありません。もちろん、私たちは師に手伝って法を正し、衆生を救い済度する過程で自己を修めるべきであり、大法の仕事をしなければ修煉していることにはなりません。しかし、私は正しくない認識を持っていたため、大法の仕事をするなかで、多くの心を修めることができず、自我を実証し、恐れる心や疑う心、心配の心、仕事ばかりしたい心、依頼心などを抱えていました。私は一日中、とても忙しくしていたのですが、修煉の要点をつかんでおらず、仕事に倍の力を費やさなければなりませんでした。また、トラブルにぶつかったら、外に向けて求め、問題が現れたら、あれこれと不満を漏らし、同修や家族にも不満を持っていました。
 
 三、トラブルに遭遇した時、内に向けて探すことができず、すぐに怒りをあらわにした
 
 私は普段の生活の中で個人修煉を重視せず、自我を実証し、自我を守り、ずっと「私が何をしたいか」ということばかりを強調していて、自分の基準で他人に要求していたため、他人の立場で物事を考えることができませんでした。内に向けて探し自分にどんな執着心があるかを見るのではなく、外に向けて探し、何か問題が起きたとき、それを「私がやっている正しいこと」に対する妨害だと思っていました。何かを言われると、すぐに怒り出してしまったことすらありました。私は他人の意見を聞き入れることがなく、特に家族の場合はなおさらでした。家族はみな修煉者ですが、各々の次元が異なり、心性の基準も異なり、問題に対する認識も、もちろん異なります。しかし、私は他人の意見を理解することが出来ず、人と争い、自分の考えを押し通しました。ある時、私は家族に配慮せず、どうしてもやりたいことがあって出かけました。結局、土砂降りの雨に遭いましたが、私は悟れませんでした。このようなとき、私に修煉者としての姿はありませんでした。口ではよい事を言っていましたが、実際の行動に現れていませんでした。
 
 私はここで、一つの問題だけを明らかにしたいと思います。表に出て真相を多く伝えれば伝えるほど、迫害を受け易いという考えは間違っています。「いつも河のそばを歩いていたら、靴はそのうち濡れてしまう」という言い方がありますが、実はそうではありません。師父は「真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。肝心なのは、何かをする時の心構えにそれらに付け入る隙を与えないようにすることです」(『各地説法二』『二〇〇二年ボストン法会での説法』)と説法されました。私たちがもし自分自身をしっかり修めることができず、執着があり、そして修煉者としての姿勢がなければ、旧勢力は口実をつかんで、私たちにいわゆる試練を与えてきます。もちろん、私たちは旧勢力のすべての按排を認めません。執着があり、漏れがあったら、それは大法の中で正されます。私たちは師父に管理されており、旧勢力には私たちに試練を与える資格はありません。私たちの正念がとても強いとき、師父は私たちを助けて邪魔を排除してくださり、迫害の要素を消してくださいます。しかし事後、私たちは必ず内に向けて探し、教訓を汲み取るべきです。
 
 すべての法を正す時期の大法弟子は「師に手伝って法を正す」ことが大法弟子の歴史的使命であると知っています。しかし、それは口だけに留まるものではなく、実際の行動に移さなければなりません。どうやって行動に移すのでしょうか。私の理解では真に100%、師父を信じ大法を信じて、完全に大法の要求通りに行い、師父のお話の通りに行い、自我を放下し、人間としての観念で師父の話を量るのではなく、すべての人間の執着を放下し、難関にぶつかったら、その場しのぎでいい加減に対処せず、内に向けて探し、正念を強くして、正々堂々とした修煉者となり、しっかりと法を勉強して、法に同化し、着実に自分を修め、着実に三つのことを行うことで、先史の大願を実現すのです。
 
 (完) 
 
2011年06月26日

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