■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/07/12/mh140733.html 



「恐れる心」に関して再考する

文/中国の大法弟子

(明慧日本)「恐れる心」の背後に隠れている根本的なものは何でしょうか? 全体から言えば、それは「安逸心」なのです。

 最近、当地区において中共(中国共産党)による大規模な迫害が発生し、私の心は重く抑制されているようです。大法を実証する仕事を担いながら、一方では迫害を受けている同修のことを心配しています。当然ながら身体への圧力も感じています。
 
 私は、この圧力の背後にある、根本的なものは何かについて再考した結果、それは「恐れる心」であり、私は、同修たちがこの迫害を否定できないのではないかと恐れていました。もちろん、私自身にも恐れる要素があるからです。私はさらに、「恐れる心」の背後に、何が隠れているのかについて再考しましたが、考えているうちに、密勒日巴(ミラレパ)佛の修煉故事を思い出しました。
 
 密勒日巴佛は幼い頃、人生に挫折し、世間の限りない無常さを見破り、三悪道境地(注:悪行を重ねた人々が死後に赴く地獄などの世界のこと)の苦しみを悟った後、一心に法を求めて、解脱して佛を修める決心し、しかも今生で成仏すると志したそうです。このように密勒日巴は世俗のむなしさを見破ったため、あのような苦しい修煉の方法を選びました。彼は、成佛したいという信念の極限の強さによって、世間の愛や憎しみを捨て去ることができ、山に入り修業することを選択したのです。彼の修煉故事からは、彼の修煉の中での苦しみ、特に洞窟の中で修煉していた時の経歴、ふさぎ込んでいた状況を読みとることができません。しかし彼は鬼、獣、虫、蛇と正面から向かいあわなければならず、寒さや飢え、着るものや住む場所がないと言う状況にも直面しなければならず、親族の情を切り捨てることや、耐えがたい寂しさなど、終日洞窟の中で修煉する苦しみに耐えなければなりませんでした。これらの苦難の中で、彼が修煉を止めようとしなかったのは、今生で成佛したいという、強烈な信念を持っていたからです。
 
 それでは、今日の私たちの修煉を振り返ってみますと、修煉や正法に対する態度が、当時の密勒日巴佛に及ばないのであれば、それは私たちが「人」のものを放下しようとしないからではありませんか! ましてや私たちが世間に来たのは修煉のためではなく、自分の誓いを果たすために来たのであり、使命を持って、師が法を正すことを手伝いにきた大法弟子なのです! そうであるならば、私たちは個人の修煉に関しては、遥かに密勒日巴佛を超えなければならないのではないでしょうか? 「人」のものをなぜ早く放下しないのでしょうか? 私たちは「師が法を正すことを手伝う大法弟子」を自称していますが、果たして真に自覚している大法弟子は何人いるのでしょうか。早く目覚めましょう! 常人の中に迷わないで、片手は常人のものを掴み、片手は佛のものを掴んでいてはいけません。私たちは本性を取り戻して、唐の王が形成した「黒甲部隊」のように、百戦連戦の勢いで、宇宙の旧勢力らを取り除くのです。私は、『天の技、「精鋭黒甲部隊」は、今いずこに? 』と言う文章を呼んでから震撼を覚えました。私は時々、心の中で暗唱しています。「『精鋭黒甲部隊』は今どこに? 私の心の中にいる」。
 
 最後、同修たちに、明慧ネットに6月16日に掲載された『天の技、「精鋭黒甲部隊」は、今いずこに?』を是非読んで頂きたいと思っております。(注:日本明慧ネットでは、2011年6月26日から28日にかけて掲載されています) 
 
2011年07月12日


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