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法を実証することは、自分が良いと思う方法を実証することではない


文/中国の大法弟子

(明慧日本)師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する過程の中、具体的な行いの中で私たちに、異なる意見と認識があります。そのため同修との協調において、いかに法を実証し自分を実証しないようにするかという問題があります。
 
 人には皆、自分のやり方があり、違う次元、異なる角度からみると意見もばらばらになります。しかし、もし皆が自分の意見ばかりを主張するなら、どうやって協力し合うのでしょうか。時に、誰の意見を採用するかで論争が起き、実際の行動に影響を与えたりしてしまいます。これではどうやって人を救い済度する使命を果たすのでしょうか。
 
 互いに協力し合うとき、放下するのは自分の観念です。たとえ誰かの意見が完璧ではないにしても、皆が力を合わせて不足を補えば成功させることができ、師父の要求に従って自我を放下したので、心性も高くなります。「心性の高さは功の高さ」(『転法輪』)なので、私たちは法が要求する次元に達したら、もちろん実際の行動も成功します。このようにして内に向かって探し、人の観念を放下することで法を実証することができます。一方、皆が自分の主張ばかりに固執してしまえば、それは自分が良いと思う方法を実証することであり、根本的には自分を実証しているのです。このようにしてしまえば、いかに方法が完璧に見えたとしても、法を実証する効果を得ることができません。
 
 たとえ方法が完璧ではないにしても、皆が協力し合って黙々と法を実証することができれば、やっているうちに自我を放下し、自分の観念を捨てることができます。そうすれば法に基づくことができ、人を救う効果が得られるはずです。もし私たちが皆、神の考え、神の次元になって法を認識することができれば、もっとたくさんの衆生を済度することができます。
 
 個人の体得であり、ご指摘をお願いします。 
 
2011年07月13日


(English:http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/7/5/126529.html
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