■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/07/15/mh174447.html 



師が法を正すことを手伝う前提は師と法を信じること

文/中国の大法弟子

(明慧日本)大勢の学習者は、師が法を正すことを手伝うことについて話していますが、一体どうすれば本当に師が法を正すことを手伝うことになれるでしょうか? 師父の新経文『師に手伝い法を正すとは何か』を学んだあと、最も感概深かったのは、必ず百パーセント師を信じ、法を信じなければならないということです。そうでなければ、師が法を正すことを手伝うとは全く言えないのです。
 
 いずれの学習者も、自分は師と法を信じると確信しているでしょう。法を正す今日に至ると、誰もが自分は師と法を信じていないとは認められないでしょう。しかし、私たちの毎日の言動の中に、しばしば師と法を信じていないことが現れているのではありませんか? いわゆる師と法を信じることの「信」は、何十パーセントではなく、百パーセントでなければならず、尚且つ無条件でなければなりません。
 
 大法の修煉を始めると、師父は「われわれは皆さんの身体を無病状態にまで押し上げていきます」(『転法輪』)と教えてくださいます。しかし、少しでも身体に不具合が生じると、病気ではないかと思いがちです。師父が私たちに「同時に正念を発するその5分間で、邪悪は永遠に三界内に存在しなくなります」(『米国フロリダ州法会での説法』)と教えてくださった通りです。しかし、私たちがいつまでも自分の正念の威力を疑うことによって、邪悪の悪事が今でも続いています。師父はまた、「以前既に話しましたが、実は常人社会で起きた全ては今日においても、皆大法弟子の心によって促成されたのです。旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。正念が十分であれば、旧勢力もどうしようもありません」(『二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法』)と教えてくださいました。しかし、私たちはやはり世間の形勢の変化に執着し、国連人権組織までに依頼し、誰が政権を握るかにまで気にしたり、時間のことまで執着したりしています。師父が行われていることを理解せず、人心で師父のことを測るなどなど、これらは実際すべて師と法を信じていないことそのものです。師と法を信じなければ、師が法を正すことを手伝うことに達していないばかりが、師父が法を正すことまでを妨害してしまうとも言えるのではないでしょうか。
 
 師父は『導航・北米五大湖地区法会での説法』の中で次のようにおっしゃいました。「皆さんの最も偉大なところは法を正すことと足並をそろえることができたことです」一部の学習者は積極的に三つのことを行えば、法を正すことと足並をそろえることになると言っています。もちろん、真に法を正すことと足並みをそろえれば、三つのことを積極的に行うようになるでしょうが、物事をやっているばかりで、大法の法理をはっきり認識しなかったり、人心と情をもって法を正すことと衆生を救い済度することを考えていれば、どんなに神聖なことを行っていても、やはり人間の考え方そのものではないでしょうか。行っている事も神聖な状態になってはおらず、実際、師と法を信じていない状態だと考えられます。師父は私たちに、法を何よりも大事にするよう教えてくださったにもかかわらず、私たちはいつまでも個人の角度から、あるいは個人修煉の基点から問題を考えると、師が法を正すことを手伝うことになれるでしょうか?
 
 「もちろん、ついてこれなかったことにほかにも多くの原因がありますが、実はいずれも大法を真に認識できていないからであり、当然正念が足りなくなり、迫害される中で動揺してしまいました」(『師に手伝い法を正すとは何か』)
 
  法を正す中で、どんな物事でも法を正すことから離脱できないのです、宇宙の中のすべては、法を正すことによって自分の位置を置き直さなければなりません。ですから、私たちが行っているいずれのことも、あるいは動じた一念でも、師父が法を正すことの基点から、衆生を救い済度する角度に立たなければならないのです、つまり、完全に自分を放下してから、本当に師が法を正すことを手伝うと初めて言えるのであって、本当に師父の要求に達することができるのです。
 
 個人の観念に立ち、人心の角度から行った一切の行為は、師と法を信じていない現れです。なので、その時点に限って本当に師に手伝い法を正すことになってはいないのです。そういう時が多いと、つまり、ずっと師と法を信じ切っていないということで、本当に師が法を正すことを手伝うとは言えません。
 
 個人の考えですので、妥当でない所はご指摘ください。  
 
2011年07月15日


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