文/中国の大法弟子
長年、身近にいる多くの同修は大法に照らして、内へ向かって探す事ができていません。しかも、このような同修は各地で見られます。魔難の中で関を突破して来た同修は、自分を修め正念を持っています。しかし自らを修められない同修が関を突破する事は困難です。これについての私の意見を述べたいと思います。
学法グループの中で、よく修煉ができている同修は、毎回学法するとき、まず自分の修煉体験を発表し、先頭に立って交流をしています。このように良い環境を形成した後、他の同の発表を励ましています。こうすることで、徐々に発言する人が多くなります。このとき皆が他の同修の修煉状態に注目し、修煉がよくできていない同修を励まし、法に基づいて向上をはかることができます。このように何回か関を突破する事を手伝った後、このような同修は自分で関を乗り越えられるようになり、自然と自ら修めることができるようになります。また、一部の同修は、会社や家庭で起ったトラブルに対して、内へ向かって探す事ができますが、まだその心が取り除けていないと感じています。こうして数年経っても関を突破できず、同じ次元にとどまっています。法に照らして自分を修める事ができず、見つけた人心をそのままにしてしまい、法の学習もおろそかにしてしまうのです。このような人に対しては、法理をもって自分の人心を見つけてもらい、法の言う通りに従ってもらいます。こうして、同修は変わり、自分を修めることができるようになり、法に照らす事ができるようになります。
ある同修は、10年前に男女関係に問題を起こして、その後間違いに気づき、それからは間違いを犯していませんでした。この同修は今、それを皆の前で告白したいと言いました。その同修の話から、彼女は法の基準に達していないことがわかりました。私たちは、その同修に善意を持ってこう言いました「表面的な放下は、関を突破したとは言えません。いつも彼を思い出しているという事は、あなたはまだ関を突破できていません」。彼女はこの話を聞くと閃いたように「そうですね。私はいつも彼を思い出してしまいます。彼に似た人を見かけると心が動揺してしまいます、彼と一緒に生活できたらどんなに幸せだろうと思います」と言いました。しかし彼女は、今後このような考えは捨て、自らを修めるべきだと述べ、最後、彼女は彼を見かけても心が動じず、慈悲心でこの問題に対処できるようになりました。彼女は法の要求に達することができました。それから、この同修は学法グループで積極的に自分の悟った事を述べるようになりました。
同修を手伝うとき、すぐに成果を求めてしまえば効果はよくありません。同修と交流する過程での障害は、私たちを向上させる過程でもあります。必ず慈悲を持って同修を手伝ってください。自分を修める事ができる同修に対して、問題を発見したら必ず指摘してあげてください。また、必ず善意を持ってください。
同修の間では、お互いよく交流し、ともに精進し、師父の要求を圓容しましょう。現段階の認識ですので、間違いがあれば、指摘をお願いします。
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