袁江さん(男性)の父は中国西北師範大学の教授を勤め、母も高校の教師でした。袁江さんも中国で最も有名な清華大学を卒業しています。99年に迫害が始まってから、袁江さんは積極的に法を正す活動に参加し、地元の明慧協調人になりました。袁江さんは2001年9月30日に不法に逮捕されました。袁江さんは、地元である甘粛省の協調人として、多くのことをしていました。そのため不法に逮捕されてから、袁江さんは様々な想像を絶する拷問を受けました。2001年10月26日、袁江さんは正念を持って手錠と足かせを外し、刑務所から脱走することに成功しました。しかし、体力のない彼はある山の洞窟に入りました。この洞窟の中で、袁江さんは四日間昏睡状態に陥りました。その後、袁江さんはゆっくりと洞窟を出て、ある学習者の家を訪れました。しかし11月9日、拷問により受けた様々な内傷と外傷により、29歳の若さで亡くなりました。袁江さんが亡くなった後、警官らは大規模な捜査を行い、袁江さんを助けた多数の同修が逮捕されました。袁江さんの両親も監視下に置かれました。
王潺(ちゅう)さん(男性)は、北京人民銀行の管理者を勤めていました。1999年に迫害が始まって以来、王さんは各地をさすらうようになりました。王さんは積極的に明慧の仕事に携わっただけでなく、地元の大法弟子とともに多くのことをしてきました。数年間の間、王さんは中国のいくつもの省を訪れ、中国の協調人の一人になりました。この協調人の立場は自然に出来上がったもので、彼が大法の中で修練した境地によるものであり、周りの同修が自ずと、王さんについていくようになった結果です。明慧ネットに情報を発信するルートを作り出すにしても、それを守ることにしても、またさらに明慧ネットの文章と情報が広がるようにしても、王さんは同修を導いて、法を正す修煉の中で絶えず向上していました。王さんの影響力は絶大でした。しかし2002年8月21日に、王さんは山東省で不当に警官らによって身柄を拘束されました。王さんは監獄の中で、様々な残酷な拷問を受けながらも、決して修煉の意思を放棄しませんでした。一週間後の8月28日、王さんは残酷な迫害のため、殺されました。39歳でした。王さんが亡くなった後、遺体はその場で強制的に火葬されました。
李忠民さん(男性)は、大連市の外資系企業で勤める、30代前半の若者でした。李さんの修煉は非常に安定しており、1999年に迫害が始まって以来、何度も不法に逮捕されましたが、2000年12月28日午前、師父のご加護のもとで、李さんは5つの関を乗り越え、正々堂々と4カ月と15日以上不法に拘禁されていた、大連労働教養所を抜け出すことに成功しました。その後、李さんは何度も不法に逮捕されましたが、いずれも奇跡的に抜け出すことに成功し、警官らですら不思議に感じるほどでした。李さんは明慧ネットにおける、中国本土の連絡係として、資料点の運営維持や、自分の修煉、真相を伝えることなど、非常に精進していました。周りの同修も皆、李さんを非常に尊敬していました。李さんを中心にして、非常に強い団結力が生まれました。公安局も李さんを大法弟子の最前線で活躍する修煉者とみなしていました。そのため大連市公安局は、李さんを逮捕するため180人以上の人員を動員しました。2002年1月21日、李さんは不法に拘禁された後、残酷な拷問を経て、密かに15年の実刑判決を言い渡されました。しかし、2003年3月4日、李さんは監獄の中で、度重なる迫害により殺されました。
厳しい形勢の中でも、当時、明慧ネットに関わっていた全ての修煉者は、心の中では一つの思いしかありませんでした。それは、どんなに現状が残酷であっても、この仕事をしっかりと行わなければならないということです。全員がこの厳しい環境の中で堅持し、自分の使命を全うすること、そして使命を全うするには必ず法をしっかりと学ばなければいけないと認識しました。
当時の明慧ネットの全ての重要なスタッフは、しばしば技術的な問題にぶつかりました。他空間からの妨害は絶えることがなく、ネット回線は頻繁に切断されました。また、使っている機械も理由なく故障しました。その時はまだ、発正念の概念もありませんでした。正法の修煉の概念もなく、問題があれば、まず論語を暗記し、法を学びました。このようにすると、得てして故障した機械は正常な状態に戻りました。
外在的な迫害の圧力により、修煉者間の認識の差異、協調できないことによってもたらされた問題もありました。同時に迫害の勢いが日々、増していく中、中国本土の多くの大法弟子が残酷な迫害を受け、絶えず迫害のために大法弟子が殺されたという情報が入ってきました。その当時、明慧ネットをやっている大法弟子は毎日、ある種の圧力を感じていました。ある若い編集者は数カ月前の間に、髪の毛の半分が白くなりました。また、もう一人の編集者は、毎日の明慧ネットの仕事の後、あまりにも疲れているため、帰宅の途中の30分の道のりを何度も休憩しながら、やっと車を家に走らせることが出来ました。このような見えざる、形容しがたい圧力のもとで、重要な編集者たちは二カ月もすれば、命が尽きてしまうほどに感じました。しかし、どのようなことがあっても耐えなければならず、毎日着実に仕事を行わなければならない、他の同修に仕事を受け渡す流れを途絶えさせてはならないと考えていました。なんといっても、大法のためであり、命にどんなことがあっても悔いはないからです。認識に限界がありましたが、当時はこれ以上のことを考えられませんでした。
一日が一年のように長く感じる中、この異常な圧力の中で2カ月が過ぎ、半年が過ぎ、5年が過ぎました。この過程の中で、明慧のスタッフはいずれも、明慧の仕事の中で大法の超常的な現象、大法の威徳を見証しました。
(続く)
明慧ネット:jp.minghui.org
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