■日本明慧 http://jp.minghui.org/2011/08/21/24609.html 



若い生命は大法のためにある(二)

文/江蘇省の大法弟子 雲舒
 
 
 一つの不思議な変化が現われました。以前、私が多くのものを保有していとき、私は法を大切にする意識が希薄なり、本当に大切なものを失いました。しかし、魔難の中で人間のものが次々失われたとき、落ち着いて考えてみると、この魔難は、私に生命と法のつながり、法の至上と貴重さを悟らせてくれました。その後私は、再び人間のものを保有しても執着せず惜しむことはありませんでした。
 
 私の心は静かになりました。他の同修や常人の生活を羨む気持が消え、心地よく悠然となりました。いつでもどこでも、私の生命と同時に存在しているのは法だけです。私の命も法のために存在しているのではないでしょうか。大法の中で大法に同化し、三つのことをしっかりやることが最も幸せなことです。私は他のものを求めませんでした。
 
 実際、大法の修煉は私たちが物を失うことを求めていません。重要なのはその心を放下できるか否かです。私はこの方面の執着をいつまでも取り除くことができなかったので、この難を招きました。転んだ後、人心を磨いて執着が無くなると、問題が解決され経済状態も良くなりました。私はそのことで喜ぶこともなく、心の中に執着が少なくなったことにつれて心が軽くなり、あってもなくても、心はそのために疲れることはありませんでした。私は生命の本当の存在目的が分かった後、どんな執着が現われても、容易に取り除くことができました。自分は執着のために存在しているのではなく、法のために存在しており、心の中に法だけを持ち、他のものを持たず、自然に任せました。大法の中にいる生命は、いつでもどこでも最も充実しており、最も幸せなのです。
 
 師父は『転法輪』の中で「考えてみてください。もし、修煉の道において生じる、あらゆる障害物をことごとく片付けてあげてしまったら、あなたはどうやって修煉するのでしょうか? 魔の妨害があってこそ、最後まで修煉できるかどうか、本当に道を悟れるかどうか、妨害に動ぜずにいられるかどうか、この法門を堅持できるかどうかがはっきり分かります。『荒波は砂を洗う』という言葉がありますが、修煉はまさにそうで、最後に残ったものこそ真の黄金です」とおっしゃいました。今回の魔難は猛烈な勢いで私に向かってきましたが、私はこれを利用して自分の多くの人心を取り除きました。人間の名・利・情若い同修にとっては修煉における生死の関のようなものです。高齢の同修は、修煉の道を歩むにつれて執着心が多少磨かれて無くなります。彼らはまだ社会人でない、あるいは社会人になったばかりの若い同修のように世間の多くのことに対して期待しませんでした。多くの子供弟子は大きくなった後、この関係を正すことができず、徐々に下へ引っ張られました。小さいときの修煉状態が良いのは生活環境がわりあい単純で、先天の条件も良かったからです。しかし、常人の中に1日でもいると、人心が生じ大きくなり、常人に触れることが多くなり、常人のことを多く知れば、関わる問題も多くなります。名情に妨害されているとき、心は法の中にありません。トラブルを利用して真に修め、終始法を用いて自分を厳しく律する事ができるか否かは生死の関と同じです。乗り越える事ができれば、大法の一員となり、乗り越えられなければ、修煉を放棄し、あるいは修煉したり、しなかったりするようになります。
 
 師父は『スイス法会での説法』の中で「皆さん考えてみてください。生死の関を乗り越えられなければ圓満成就できません。しかし決して死ぬときの痛みを経験してから、はじめて生死を放下したと言えるというようなことではなく、それはただの形式に過ぎません。私は形式を重く見ておらず、あなたの心を見ており、心から本当にできるかどうかを見ています」と説かれました。師父の法の意味は深いのです。私の次元で悟った生死の関とは、本当に死に直面するのでなく、人間の考え、執着を放棄できるか否か、自分の存在の意義、自分の命と大法との関係を悟れるか否か、妨害を排除し、師父に要求された三つのことをしっかりやれるか否かです。問題に対する考えや選択の基点を大法に置いたとき、高い次元から下を見ると世間の全てはあまりに小さすぎて、若い大法弟子の足を引っ張ることはありません。
 
 学法の中から悟ったことは法を正す時期の大法弟子は法を実証しなければならないということです。一人一人やっていることは違いますが、皆正の作用を果たし、正の要素に責任を負っていくのです。
 
(続く)
 

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/7/29/244547.html)


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