実修、内に向けて探す
私が法を得て一年後の正月のこと、夜、夫は知り合いの家で晩御飯を食べて家に帰ってきませんでした。夫は夕食後、マージャンを遊びに行っており、私は夫の携帯に電話をして、「10分後に帰ってきてください」と言ったのですが、帰ってきませんでした。私が再び電話すると、電源が入っていませんでした。以前、夫は私が催促すれば、必ず帰ってきて、電源を切る勇気すらありませんでした。そのため私は夫を探しに出かけ、道中、歩きながら怒ってしまいました。私は魔性が爆発したかのようで、「着いたらお前を叱ってやる。速く帰ってこい!」と考える一方、もう一方の分かっている一面、すなわち善良な一面が「私は今、大法弟子ですから、法も得ているし、真・善・忍に基づいて行うべきで、以前のようにしてはいけません。口でいくら大法が良いと言っても、自分自身を変えなければ、どこが良いのかと思われてしまうでしょう。師父が言うとおりに行わなければなりません」と考えました。こうして善と悪が戦いあって、最後に善が勝利しました。私は夫のいる場所に着いた時、ニコニコしながら「夕べは残業で遅かったから、疲れているでしょう。今日はここまでにして帰りましょうか」と言いました。帰ってから夫に「私はあなたの面子を保ったでしょう。これからあなたを罵らないことにします。私には私のイメージがあるから」と言いました。夫は笑って、「今日は確かによくできたね。あなたにどんなイメージがあるの?」と聞きました。私は「大法を学んでいるから、大法弟子としてのイメージを表すべきです」と言いました。
実家に、落花生を取るときに使う道具があります。ある日、実家の前で落花生を取っていたとき、ちょうど同修が来て一緒に交流しながら、手伝いをしてくれました。しばらく経って夫は道具を運んでくれました。同修は「いい夫だね、道具も運んでくれるなんて」と言いました。私は「今は忙しい時期で、夫と一緒にマージャンで遊んでくれる人はいないからだよ。そうでなければ来る暇もないよ」と言ってしまいました。夜帰ってから夫は「これから人前でそういうことは言わないでください。私が遊ぶ以外、何もしていないように思われるのではないですか?」と言いました。私はいけない、と思い、内に向けて探しました。このとき『転法輪』の「嫉妬心」の中で、子供が100点を取った部分の法が頭に現れ、自分の中の嫉妬心を見つけました。同時に師父が毎回法を説く時、最初にいつも「みなさん、お疲れ様です!」と言ってくれて、口調が厳しい時も、師父はいつも後で、「今日、師父の口調が厳しかった」と言ってくださいます。師父はとても謙虚で、常に弟子の受け入れ能力を考えていらっしゃいます。私も師父のように、すべてを善によって対応し、慈悲で自分の言動を導きたいと思いました。私はもう一つ、悟ったことがあります。同修の過ちが見えた時、または皆がある同修のせいだと言うとき、これらの評価や評判を基準にして、この同修を測ってはなりません。そうしてしまえば、自分の心の中で同修を一定のレベルに固定してしまいます。修煉を続けていくにつれ、同修も一歩一歩だんだんと良くなっていきます。一考一念は全て法に基づかなければなりません。
人間の観念を取り除く
私たちは何度も輪廻転生していて、様々な観念、つまり人間の考えを形成してきました。これは私たちが修煉の中で取り除くものです。何か問題を考えるときや何かをやるとき、その一瞬で法を思い出し、そのとおりに行えば、既に正念つまり神の念となり、このときは神の状態なのです。
ある時、同修と露天市場へ行って、化粧品を売る若い男性に真相を伝えたとき、「三退」について話した後、大法の真相を話しました。この男性は大法のことを聞くとすぐに「今すぐにあなたたちを通報します」と言いながら、携帯を取り出しました。私は正念を発しながら彼に「真善忍の三文字のどれが良くないと思いますか? 何かいけないこともありますか?」と言いました。同修も「これはあなたのためです。真相さえ分かれば幸せが訪れます」と言いました。私たちの話を聞くと、男性は笑って「かけませんよ。もう行っていいですよ」と言いました。
私は十何年前から虫歯が1つあり、今年、その虫歯から変な匂いが出てきました。『転法輪』の第七講、「ポケットから一本のマッチ棒を取り出し、薬の宣伝をしながら、病んだ歯にマッチ棒を当て、ちょっと横に動かすと、歯がポロリと落ちました。痛くもなく、わずかな血痕があるだけで、出血もしません」を読んで、私は考えました。古代はマッチ棒で、現代は精密機器で虫歯を治療しました。私は大法を修煉しているから、医者に抜いてもらわず、自分で抜けたらいいな、と思いました。翌日の朝、歯が動くようになって、舌でちょっと舐めると抜けてしまいました。しかも出血もありませんでした。「人はそこに坐ったまま、手も足も動かさないで、他の人が手足を使っても出来ないことをやり遂げてしまいます。」「煉功者の場合は、意念が功能を支配して働かせます。一方、常人の場合は、意念が四肢や感覚器官を支配して働かせるのです」(『転法輪』)。師父は法を説く時、よく大法弟子は功能がもっていると言っています。私たちが日常の生活の中で思惟行動を行うとき、常に自分を神の立場に立たせ、真に「正念を持ち続け、神はこの世にいる」(『感慨』)にように、神様の状態になりましょう!
不適当なところをご指摘願います。
明慧ネット:jp.minghui.org
|