文/中国の大法弟子
法を得てから現在まで、すでに十数年になりました。自分の修煉や師が法を正される過程を振り返れば、私はよくやってきたと感じていましたが、後になって私は邪悪に妨げられ、迫害されてしまいました。なぜでしょうか? 師父はこう教えてくださいました。「しかし、なぜあなたが妨害されたのかと考えないのでしょうか? なぜあなたを妨害することができるのでしょうか? 自分に何かの執着があり、放下できないことがあるのでしょうか? なぜ自分自身を見ないのでしょうか? 本当の原因が自分のところにあるから、邪悪に隙に乗じられたのです!」(「『各地での説法三』 大ニューヨーク地区法会での説法」)
師父の説法を学ぶことによって私は、修煉過程の中にいかなる偶然なこともないと悟りました。内に向けて探すことは、表面の形式に留まってはならず、根元に存在している問題の原因を探し出さなければならないと思いました。そして内に向けて探してみると、やはり本当の原因が見つかりました。
学生時代、また以前、仕事をしていた頃から、私は自尊心が強く、一番を争い、負けず嫌いで、何をしても出しゃばりたい性格が際立っていました。この性格は勉強や、仕事や人との付き合いの中である程度役に立ち、私はこれまでずっと、それを自らの栄光であると考えて来ました。大法を修煉し始めてからも、この性格は改められないばかりか、ある方面においてより強烈に表れました。心の中で私がいつも思っていたのは、「法を得たので、この千古の機縁を大切にし、勇猛邁進しなければならず、他の同修より良くできるように努力しよう」ということでした。そのため、学法や煉功の面でも、発正念や人を救う面でも、協調の仕事を担当することや、法理の面で同修を助け切磋琢磨することや、共に精進する場合でも、私はすべての面で前を走ろうとしていました。
もし誰かが何らかの面で自分を超えたなら、心が塞がれたように感じ、この人に嫉妬してたまらず、今度は絶対に彼を超えなければならないと決心しました。例えば、甲同修はよく田舎へ真相資料の配布に行き、何年もの間よくできていました。すると自分の心は納得しませんでした。私は「彼女は仕事がないから時間がたっぷりあって、よくできるのは当たり前だ。自分も仕事がなければ彼女よりもっとうまくやれる」と思いました。
「私たちの町では誰も私を越えることを許さない」と偉そうに言い、この嫉妬心の下で食事や睡眠を忘れるほど頑張って、仕事の後や週末によく田舎へ真相資料の配布に行きました。職場でもあらゆる手段で人と顔を会わせて真相を説明しました。時々、退社してから食事もしないうちに、同修から交流や発正念に呼び出されることもありました。協調の仕事もあるので、毎日とても忙しく、疲れていました。
時間が経つにつれ、私に交流と協力を求めに来る同修はますます増えてきました。ちょっとした良い結果が出たので、私は一部の同修たちから認められ、好評を受けたりしました。自分の競争心も満足し、段々と人より高い所に立っているような執着心が生まれました。この心が出ると本当に恐ろしいものです。私はいつも人より偉いと思うようになり、「私たちの地域で、もし私が円満成就できないなら、誰もできない」と図々しく言ったことが2回ありました。
私が抱えている問題に気づいた同修は、善意で私と交流しに来ましたが、私は絶対に彼らに喋らせず、「私は正法の中で、どうやって自分を正すかを分かっています」と言いながら、心では、「あなたは私と比べたらまだ程遠いのに、私を指導する資格なんてあるわけがない」と思っていました。その後、総協調人は私が担当した協調の仕事の一部を他の人に任せました。私はそれを知った後、いらいらして同修に、彼らが自分に対して不公平だと指摘しました。いざこざや恩讐の中で他人を非難して、決して内に向けて探すことはしませんでした。競争心、嫉妬心、怨恨の心がますます強まり、その結果は人心による大きな漏れによって鬼を招き、私は共産党に迫害されました。
苦しみの教訓から反省して、内に向けて深く探したところ、自分の嫉妬心、闘争心、怨む心の根源はなんと、名誉を求める心に他なりませんでした。つまり自分が同修の中での声望を求めることとは、旧勢力のように自分を捨てられず自分を実証する私心と同じです。「嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」(『転法輪』) これらの法理は自分も読んだり勉強したり暗唱したりしていましたが、以前はいつも交流の中で他人に干渉し、全く内に照らして自分を律していませんでした。まるで自分も信じられない話で、まさに自分を欺き他人をも欺いていました。そして最後に、私は妨害を受けてしまったのです。本当にぼんやりして馬鹿馬鹿しいものでした。
その後、徹底した発正念で、自分の執着心と腐敗した物質を取り除くことにより、「塞」「妬」「怨」という感覚は消えました。心も気分も清くなり、気持ちが限りなく大きくなりました。本当に修煉は厳粛であり、神聖かつ玄妙であると感じました。師父の慈悲なる済度と同修の支えに感謝します。合掌!