文/中国の大法弟子
(明慧日本)正の面から見て、12年にわたる長期間迫害に反対する中で、多くの大法弟子は一つひとつ血の教訓を経験し、自分の修煉の道を正し学法に努め、内に向けて修め、一歩一歩成熟へ向かい自分の今後の道をどのように歩むのか、ますますはっきりとわかるようになりました。師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する責任と使命をますます認識し、曖昧にしてはいけないと分かり、積極的に各自の責任を引き受けました。今、中国大陸ではこのような同修が大法弟子の主流であり、師が法を正すことを手伝う中で世間を導いています。
最後になればなるほど、師父は法を明らかにされました。天象の変化、世人の態度は皆師父がおっしゃられたすべてを実証しました。これらの全ては皆師父の把握の中で変化しています。また多くの同修は生死の執着を放下し師父と大法を堅く信じ、一歩一歩師父の要求に従って歩み、完全に自分を法の中に溶け込ませ、生命を自分の責任と使命の中に溶け込ませました。
ますます多くの同修が、自分が今日世間で持っているすべては大法のためのものだとはっきり認識し、法のために使うように常に心がけています。ある同修は法を実証する中で自分の生命が必要であれば、自分は躊躇せずに命を捨てると言いました。もちろん、大法は私たちに生命を捨てることを要求していないのですが、師を堅く信じ、法を堅く信じるこの心は宇宙を震撼させました。同修たちは、自分のすべてが師父と大法によって与えられたので、これらを法に返してこそより大きな作用を発揮し、その真の意義も現わると考えています。このような大法弟子は神も敬服し、衆生に喜ばれ、邪悪に胆をつぶさせました。
考えてみてください。師父が法を正しにいらっしゃらなければ、人類はすでに壊滅され、今日まで私たち大法弟子はまだ存在しうるのでしょうか? 私たちは世間のものをまだ持つことができるのでしょうか? だれがまだここで執着を守って放さないでしょうか? だれがまだ生死を放下できずに生きて行けるでしょうか?
では、大法の資源は何に使うのでしょうか? この数年来師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度するために使われてきました。はっきり言うと、大法の資源は社会の救援物資のようです。これらの物資はどれほど人の命に関わるのでしょうか。人が敢えて救援物資を自分のために使い、自分のものにすれば必ず法によって追及され制裁を受けます。
大法弟子は今日持っているすべてを自分のものとし、常人の生活だけを一途に享受し、家庭と家族のためだけに使っていたのではないでしょうか? (普通の生活と自分の尽くすべき義務は除外します) 。危険の中にいる生命を考えず、無量の衆生の生命を救い済度する物資を自分だけのものとして考えるなら、これは天の法を犯し、天の功を奪い、天の財を食いつくすことではないでしょうか?
師父は早期の講法の中で私たちに、「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)と教えられました。法を正す終わりが近い今、師父は私たちの修煉と円満のため、こんな多くの法を説かれました。私たちは冷静に自分を照らして、法の要求から自分がどれほど遠く離れているかを考えてみるべきです。
師父は、『大法弟子とは何か』の中で次のようにおっしゃいました。「師父は今日、厳しい言葉で皆さんを指摘しましたが、皆さんを警醒するためです。皆さんは世の人を救い済度し、彼らを目覚めさせ、彼らを救い済度したいと思っていますが、皆さん自身も目覚めるべきであり、悟るべきです。たくさんの仕事をすると、自分の修煉を忘れてしまい、これではいけません。皆さんは修煉者であり、これは皆さんの以前のこと、かつてのこと、またはあなたの表れを言っているのではなく、あなたの本質、あなたの生命の意義、あなたが背負った責任、あなたの歴史的使命を言っているのです。このようにしてはじめて、あなたは本当の大法弟子になります」
師父の説法から私は次のように悟りました。私たちは自らの生命を師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度することの責任と使命を一緒に融合させ、私たちの慈悲と善良な本性に更なる作用を発揮させるべきです。私たちが今日背負った責任は私たち自身の向上と昇華を含め、私たちの生命が世間にいる真の意義は師が法を正すことを手伝うとともに衆生を救い済度することです。これではじめて真の大法弟子となれるのです。私たちの責任と使命をしっかり実行しなければ、自分の生命の永遠の損失となるのです。
同修たちと共に励まし合い、私たちの最後の道をしっかり歩み、自分の生命に遺恨を残さないようにしましょう。
(完)