(明慧日本)『転法輪』を数十年読み、暗記も数回行ったつもりですが、私は法の高次元での内涵を悟れませんでした。それは、私の次元がそこまで至っていないからですが、自分なりにはよく行っていると思い、他の人と比べたらましだと思い込んでいました。
先ほど、師父が『転法輪』の中でおっしゃった次の段落を読みました。「われわれ煉功者においては、トラブルが突然現われることがあります。その時、どのように対処すればよいでしょうか? 平素から慈悲に満ちた、和やかな心を保っていれば、問題が起きた時には、一息おいて余裕をもって、適切にその問題に対処することができるのです。日頃いつも慈悲の心を保ち、善をもって人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません。したがって、煉功にあたっては、高い、もっと高い基準で自分を律しなければなりません」
私は今まで、人間の次元における理しか悟っていないことに気づきました。関を乗り越える中、一回一回内に向かって探す中で、修煉者としてすべての私(し)を修めて、最終的に無私無我の正覚を修め出すべきだと分かりました。しかし、私はいつも「私は」ということを考えました。今は、人の観念を全て捨てきれず、大法の基準に完全に到達していませんが、私は次第に分かってきました。自分自身に執着する(自分の感受、自分がやりたいことなどなど)状態を変えて、法の私に対する要求に到達すべきです。ここまで認識してから、私は自分が向上したことを感じ、再び法を読むときは、文字のその意味も違い、皆もっと深い内涵があることに気づきました。これはかつて感じたことのない感覚で、目の前に閉じていた扉が開いたような感じでした。