―― 一つの考え、一つの念において内に向けて探し、人心を取り除く
文/北京の大法弟子 蘭英
(明慧日本)
3.法を実証する過程で、自我に執着する観念を取り除く
修煉を始める前、私の性格は短気で、すぐに火がつきやすく、仕事においては有能で、自分のはっきりした見解を持つ強い女性として知られていました。どんなことにおいても強く自己主張し、表情もいかにも自分が皆の上に立っているかの様子を見せていました。修煉してから、私は学法を通じて自分の性格を変えていき、人を支配するという勢いも相当弱くなりました。
思い起こせば、第1回目のグループ学法に参加した際に、私の強気がある同修をもう少しで脅かすところでした。この出来事は印象深く頭に残り、私は常に「自分を良く修め、急いで自分の意見を言わず、全体を大事にするように」と自分に警告しています。しかし、物事はそう思うように簡単にはいかず、一つの観念が一旦形成されると心の奥深くまで残り、注意を喚起するぐらいで解決できるものではないと思いました。
同修たちとの学法の時間が長くなるにつれて、皆は親しくなり、私には同修たちに対する一種の情が芽生えてきました。そして、知らないうちに、以前に形成された観念が次々と出てきました。ある日、グループ学法の中で、ある同修が自分の意見を述べた後、私はそれが自分の意見に相反することだと感じ、すぐに自分の反対意見を発表しました。皆で議論しても、私は自分の意見を固持し、そこで、対峙してしまいました。突然、ある同修が私に言いました。「あなたはいつも自分の意見を固持し、言い方も耐えがたいものです」この話を聞き、他の同修も「私たちもそう感じています」と同調しました。この状況を見て、私はすごく悔しく思い、黙り込んでしまいました。皆は私が静かになったのを見て、学法を続けました。
家に戻ってから、学法時の出来事がずっと頭から離れませんでした。私は食事をすることも、眠ることもできず、今まで誰からもそう言われた覚えがなく、学法に参加するのをやめようかとも思いました。しかし、すぐにその考えを改め、煉功しようと座禅を組みました。心が穏やかでないので、涙が溢れ出て、私は繰り返し師父に言いました。「師父、私は好意で発言したのに…」どれぐらい時間が経ったのか分かりませんが、私は師父が「内に向けて探して、全てを内に向けて探して」とおっしゃる声が聞こえてくるように感じました。私は次第に落ち着きを取り戻し、学法を始めました。
師父は私たちにこう説かれています。「実は、人類社会の理は宇宙の中で逆になっています。人間が難に遭い、苦しみを味わうのは業を返し、幸せな未来を得られるようにするためです。修煉者の場合、正しい理にしたがって修煉すべきです。苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です。しかし、実際の修煉の中で、苦痛やトラブルがやってきて、心を刺激したとき、特に人間の頑固な観念を刺激したとき、やはりなかなか乗り越えることができません。ひいては試練を与えられているのだと分かっていても、執着を放下することができません」(『最後になればなるほど、精進すべき』)また、師父はこうも説かれています。「弟子たちよ! 師父が焦っても仕方がないのです!皆さんはなぜ、どうしてもその常人の心を放下できないのでしょうか? さらに前へ一歩、進もうとしないのでしょうか? わたしたち学習者、われわれ仕事をする人たちを含めて、大法の仕事のためであっても皆さんは互いに嫉妬しあっていますが、あなたはそれで佛になれるのでしょうか? わたしが緩やかな管理をおこなっているのは、あなたがその常人を放下できず、それによって仕事をする際に不平不満を感じているからです。大法は全宇宙のものであって、誰か微々たる個人のものではなく、仕事を誰が行なおうとも大法を広めているのです。あなたがしたとか、わたしがしたと言う必要があるのでしょうか? 皆さんはこの心を取り除かないまま天国へ持っていって佛と争うのでしょうか? 誰も大法を独占することはできません。その不平不満な心を取り除いてください! 心中穏やかではないとき、それは執着心によって引き起こされたのではないでしょうか? わたしたちの学習者は、自分はその中にはいないと思わないでください!」(『精進要旨』「さらに執着を取り除く」)
師父の法を読みながら、私はその一つ一つが私に向けて発された言葉だと思いました。振り返ってみれば、同修と一緒に法を実証し始めてから、私は時折これはこうすべき、あれはああすべきだと考え、口では「全体を重んじる」と言いながら、実際にはいつも自分の観念で物事を判断し、「他人を思いやる」との印象を人に与えながら、実際は自分の観念に執着し続けていたのです。これが長年来、私の自我に執着する頑固な観念の形成過程であり、常人の仕事をする時、多くのことを担当するのはいいことかもしれませんが、修煉者が順守すべきは法理であると思います。
私は同修たちと同じく師父の弟子であり、皆それぞれに環境が違い、階層も違い、遭遇することも違い、担うべき宇宙天体の責任も違い、それぞれが歩むべき道も違います。私たち一人一人が法を実証する中で、法理の指導のもとに、互いに協力し、全体を重んじるべきです。それが法を実証するためであれば、衆生を救い済度するためであれば、誰それの方法が良いとか、誰それがすべきだなどということはありません。しかし、私は長年、自分に形成された観念や考え、習慣をもって法を実証しようとしたのです。軽く言えば、私は同修を傷つけ、厳しく言えば、私は法を実証することに悪影響を及ぼしたとも言えます。じっくり考えてみると、私には自分を実証しようとする心だけでなく、闘争心、顕示心、面子を重んじる心、他人に指摘されたくない心など、さまざまな人心がありました。これらの人心を持って、どうやって法をよりよく実証できるでしょうか? 人心をなくさなければ、円満成就もさらさらできません。常人の中で、私は有能な人ですが、それと同時に、多くの観念、習慣も形成されました。
まさに師父はおっしゃいました。「人間の思考方式、考え方、頭の中で形成された各種の観念はいずれも、長期的に社会で各種のでき事と接触する過程で形成されたもので、年が上であればあるほど、多く積まれたのです」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』)また、師父はこうも説かれました。「皆さんは今からも同じことになりますが、あなたが正しいかどうかに関係なく、この問題は一人の修煉者にとってまったく重要ではありません。言い争わないでください。誰が正しいか、誰が間違っているのかを強調しないでください。いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか? 人心をもって正しいかどうかを強調すること自体が間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手に要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです」(『マンハッタン説法』)
師父の法を自分に照らし、私は非常に後悔しました。私は自分の意見を固持することにより、同修を傷つけたので、皆に謝ろうと決心しました(翌日すぐに謝りに行きました)。そして、常に以下のことを銘記するように自分自身に注意しています。「自分の位置づけをはっきり認識し、私は一人の普通の修煉者であり、常人のリーダーではなく、常人の心を持って大法のことを行ってはならず、自分を実証するのではなく、法を実証すべきです。師父は私の業力とさまざまな観念を形成している物質を消去して下さいました。しかし、自分の形成された思惟、習慣やその他の身についた欠点は自分自身が改めなければなりません。私は師父の慈悲なる済度に感謝し、師父の法像の前でまた涙が流れ落ちました。
法を実証する道のりはまだ終わっていません。自分もまだ多くの人心、観念を取り除かなければなりません。私はベストを尽くして自分をよりよく修め、法を実証する中で自分の一つの考え、一つの念の中から良くない人心、観念を取り除いていきます。しっかりと自分がすべきことを行い、師父の教戒を肝に銘じます。私は法をよく学び、常人の観念、経験、さまざまな汚染の中から抜け出し、自分をきれいに洗い、師父と一緒に家に帰りたいと思います。
合掌。
(完)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)