文/中国の大法弟子 鐘言
(明慧日本2012年1月11日)近年、私は自分が大法全体の進展に大きく遅れ、全世界すべての大法弟子の中で最も後ろにいる弟子たちの一員だといつも感じ、さらに私は自分の宇宙体系が支離滅裂になり、不完全になったかもしれないと思いました。
私はかつて修めていたとき、とても楽しく、とても純粋で、またかつて修めてとても苦しく、とても無力でした。私は正法の進展の神聖さとすばらしさに対し、時々刻々ついていくことができたと感じたことがあります。自分を昇華させたいのですが向上できず、迷って助けられなかった苦しみも分かりました。私は大法が伝えられ、大法を広め、大法弟子の魔難と大法の輝きをほぼ全面的に経験しました。また大法弟子の純粋さ、正しい信念、迅速な昇華、邪悟者の破滅、衆生を救い済度することの慈悲、落ちた後の苦痛、悪いことをやった後の報い、大法を遠く離れた後の孤独など正反両面ともに経験しました。
しかし、修煉しているからには必ず予想できない奇跡があります。先日、奇跡が現われました。
心性の突破がどうしてもできない状況の下で極めて苦しみ、10年間笑ったことがなかった私は、7月に90年代に私たちと一緒に修煉しているときに深い漸悟状態にあった同修を訪ねました。彼は私の修煉状態を知り、私の苦しみを理解し、時間をかけて自分が認識した主元神と自我、また執着と観念がどのように私たちの生命を支配し、自我がどのように生命の輪廻の中で形成されたかなどを話しました。その3日後に、私の学法の障碍が多く消され、再び修めることができ、新たに正法の進展について行くことができるようになりました。
それから私は新たに自分を認識し、自我とは何か、先天の自分とは何かが明確にわかりました。私は師父のおっしゃった「あなたの本当の自分は先天の自分であり、それは変らないものです。しかし人間が物事を認識する時、よくある種の観念を形成してしまいます。ところが、このような観念は本当の自分ではないのです」(『転法輪(巻二)・佛性』を深く理解しました。
これまでの私自身の20年近い修煉でわからなかったことですが、今明白になりました。私のこの一生の修煉の中で最も大切なことはいかに名、利、情や生死を放下するかではなく、いかに自我を放下し、自我を克服し、自我を越えるかです。私は生まれてから情に淡泊で、名利も知らずにいつのまにか放下していました。生死についてはさらに容易く、私は先天的に死を怖がりません。
私はこの世に来たとき情にとても淡泊で、そして成長過程で情が生じないように単純な生活環境を按排され、小さいころから学校のキャンパスで生活し、大きくなって社会のことを分かり始めたとき、我が家はいつも引っ越し、ある市から他の市へと移りました。故郷の言葉のなまりは私を新しい生活環境に溶け込ませず、ちょっと慣れたときには、また引越しました。高三の前、私の脳は閉じられ、聡明でなく、読書、勉強が好きではなく、趣味は何もなく、友達もおらず、よく1人で過ごしていました。修煉に入り1993年から1999年の間、私の修煉主に名、利、情を放下し、自我を洗浄することでした。このような状態で、私は容易に修めることができ、すぐに見れども見えず、聞けども聞こえず、心ここにあらずの修煉状態になりました。1999年、生死を放下するその試練は私にとってまったくたやすいものでした。修煉を始めてからは、死の観念が完全になくなり、生死を放下するという概念さえも印象が薄かったのです。
しかし、なぜ1999年後の10数年の間に、私の修煉は急転直下、落ちてしまったのでしょうか? 師父は1997年2月の経文『佛性に漏れなし』の中で私たちに次のように戒められました。「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」。私が理解したのは、私たち人間のすべての執着と観念、また名、利、情を含め、自我の中に全部積載しています。特に1999年からの法を正す修煉以後、さらに自我を放下しなければなりません。自我を放下するといつも言っていますが、なにが自我なのでしょうか? 私はこの認識さえはっきりしていないのに、どのように真に徹底的に自我を放下できるでしょうか? 私たちは完全に名、利、情を放下して、上へ修めるとき、自我を放下しなければ宇宙の特性と強くねじれる要素になります。
1999年前、私は情欲に落ちず、名利に落ちず、生死の試練に落ちませんでしたが、「自我」に落ちました。私は根本から自我を放下できず、そして自我は私たちのすべての執着の根です。
(続く)
(第8回明慧中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)