文/中国大陸の大法弟子 聖蓮子
(明慧日本)大法修煉者はトラブルに遭ったら、内に向けて修め、内に向けて探すことを必ず覚えておかなければならず、時々刻々自分を法理に照らしてみるべきです。私は普段から着実に修煉していなかったため、トラブルが突然現れたとき、やはりどうすればよいかわかりませんでした。昨日、私は心をえぐられ、骨身にこたえるような心性の関を体験しました。私は半日かけてこの関を乗り越えることができ、内に向けて修め、内に向けて探すことは修煉者にとって本当に宝物であると悟りました。ただ師父の説かれたとおりに行い、本当に内に向けて修め、内に向けて探せば、乗り越えられない関はないと悟りました。経緯は下記に述べます。
私は息子に住宅を買ってあげようとしましたが手元のお金が足りず、友人から少し借りようと思いました。借りる期限は2年で、利息も支払おうと思っていました。私はいままでお金を借りたことがなく、お金を借りることが難しいということも知りませんでした。しかし誰にお金を借りたらよいかについて、まず思い出した人は私の一番親しい友人でした。私たちは高校からずっと仲がよく、彼女がまだ若いとき、彼女の家庭には色々なことが発生しました。彼女の両親は早くに亡くなり、私と私の家族も彼女を多く手伝ってあげました。後になって、異なるところに住むようになり、私はまた彼女に大法を伝えて彼女に法を得させました。1999年、彼女の住んでいた所には他の同修がおらず、彼女の修煉状態も良くなかったため、私は何回も彼女に学法するように促し、彼女を我が家に招いて一緒に学法もしました。数十年の友情だから、肝心な時に彼女は必ず私を助けてくれると信じて、ただ貸してくれる金額がいくらになるかの問題だと思っていました。
しかし私が彼女にお金を借りたいと告げたら、彼女は一言で拒絶しました。彼女は自分の身体に何かが起きることを恐れて、もし何かが起きても子供たちにお金を求めることはできないから、貸してあげられないと答えました。私は今までこのようなことに遭ったことがなく、これほど親しい友人なのにこんな態度で対応されるなんて、本当に予想外だったので、当時私は心をえぐられ骨身にこたえて辛く感じ、呼吸さえ困難になり泣きたい気持ちでしたが、涙は出ませんでした。
私は自分が修煉者であることを意識していました。師父は説法の中で何回も、すべての出来事は偶然ではないと説かれました。辛くなるのは必ず自分に修めるべき人心があることを示しています。辛かったのですが、私は繰り返して自分に、どんな心が放下できていないのかを探すようにと警告しました。私は情に対する執着、面子を重んじる心、恨む心、報いを求める心、褒め言葉を聞きたがる心(もし彼女の口調がもう少し柔らかかったら、それほど辛くなかったはずです)、息子に対する執着、また常人の観念により、友人だから困難な時は互いに必ず助け合うべきだと思っていました。
この時、師父が説法のなかで、情はもっとも頼りにならないものであるとおっしゃったことを思い出しました。「情は人間のこの次元でその現れが水のようなもので、人間が見た水の粒子よりも小さく、密度が非常に高いのです。情は神ですが、無形の神であり、その名は『情』です。これは三界が造られたときにできた神であり、このような作用をしています。ここにいる三界内の粒子で構成された如何なる生命も、情の中に浸っています。人間の体の分子はミクロのところから見れば、非常に大きな粒子であり、顆粒の間に隙間があります。ですから、人間がここに漬かっていますが、人間の体の分子の間の隙間、ひいては分子の中の隙間まで情に浸っており、水のように浸っています。情に動かされない人がいるのでしょうか? 情から抜け出す人がいれば、その人が神になります」(『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』)
師父はまた「トラブルの中であなたが間違っていなくても、『分かった。きっとどこかに間違いがあった。本当に間違いがなくても、以前の借りを返しているのかもしれない。正しく行ない、返すべきことを返す』とこのようにします」(『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』)と説かれました。
私は午後の時間をすべて学法に使い何回も繰り返し、この情を放下しよう、この情は私ではないと自分に言いました。少しずつ私の心は穏やかになり、恨みもなくなりました。今朝起きたら、突然師父の法を思い出しました。「羅漢の次元に達すると、どんなことに遭遇しても心にかけず、常人の中のどんなことも全然気にとめず、常ににこにこしています。どんなに大きな損をしてもにこにこして平然と笑っています」(『転法輪』) 自分をみてみると、十数年も修煉したのに、これほど劣っており、とても恥ずかしかったでのす。この時、私はすでに身体が軽くなり、息はさわやかになり、振りかえってみると大したことではなかったのです。
常に明慧ネットで同修たちが書いた文章を読み、同修たちは本当によく修めており、法理がはっきりとし、着実に修煉できていて、私にとってとても大きな励ましとなりました。たまには同修たちが書いた文章を読むと、感動し涙を流しました。修煉はほかでもなく人心をなくし、惜しまないことです。捨てるのは人心であり、得るのは次元の昇華です。ここまで考えると、突然彼女に本当に感謝しなければならないと思いました。彼女は私と最も理解し合っている古くからの友人で、彼女こそ私のずっと隠れていた人心を私が見られるようにしてくれたからです。
修煉の道のりに偶然なことはありません。すべては師父が私たちの人心を無くすため、慈悲に按排されたことです。ですから、ただ内に向けて修め、内に向けて探してこそ本当の修煉となり、そうしてこそ向上することができます。
以上の体験は同修たちと交流するために書きました。次元に限りがあり、適切でないところについては同修たちからのご叱正をお願い致します。