(明慧日本2011年12月28日)
予定外放送事件の前夜
2002年の2月頃(旧暦の大晦日)、中共(中国共産党)の中央610弁公室のリーダー・劉京は、長春南湖ホテルで法輪功弾圧のための会議を開いた。会議で劉京は、足を踏み鳴らして烈火のごとく怒りながら、吉林省は「努力が足りない」と批判し、「(法輪功修煉者を)徹底的に排除すべき」という絶対的な命令を下すと同時に、法輪功修煉者に対しては「銃で殺してもよい」と言い、迫害の手はずを整えた。その後、長春市公安局は数日間連続で、夜間に法輪功修煉者達への大規模捜査を行い、彼らの身柄を拘束すると同時に、法輪功修煉者達が真相を伝える標語を貼ったり、横断幕を掲げたりするのを見つけた場合、発砲を許可すると通達した。
明慧ネットでは、黒竜江省密山市や遼寧省鞍山市で法輪功修煉者への銃撃事件が相次いで発生したことを既に報道している。2002年2月16日(旧暦の1月5日)、遼寧省鞍山市の警官らは3人の法輪功修煉者達を不当逮捕する過程で、拳銃を使って法輪功修煉者達に発砲した。ある警官は連続して4回発砲し、弾丸は法輪功修煉者の脚に命中した。また、黒竜江省密山市の警官・杜永山は、旧暦の1月1日の2時頃、法輪功修煉者・姜洪禄さんが法輪功の真相資料を貼っていたというだけで発砲し、弾丸は脚に命中した。
明慧ネットの当時の統計によると1999年7月、中共が法輪功への政治迫害運動を公に開始してから2002年の初めまでに、中国で迫害によって死亡した法輪功修煉者の数は、確認が取れたものだけでもすでに375人に達した。しかしある中共内部の告発者は、警察の手で殺害された法輪功修煉者の実際の総数は2年間で少なくとも1600人以上になると認めた。
善良で正直な孫長軍さん
孫長軍さんは延辺州汪清県に住んでいた。親は純朴、善良で、息子に幼い時からとても良い影響を与えた。孫長軍さんは青少年時代、品行、学力ともに優れており、他人をいじめたことがなかった。短大に入った後、社会と触れる機会が増え、環境も複雑になり、孫さんは心に迷いが生じた。今の人々の心は昔と違って、善良な人はむしろ人からバカにされるので、善良で良い人である必要があるのか? 同様に利益をめぐって暗闘すべきなのか? と孫さんは考えた。しかし幸いにも孫さんは法輪功の説法のビデオに出会い、また李洪志先生の『轉法輪』を読んでから、孫長軍さんはついに人生の目的が見つけたと感じた。人は善良、正直であるべきで、何かトラブルに遭った場合には自分を抑えるべきである。自分のなすべきことをすれば、自然に得るべきものが得られる。孫さんは人生の中で従うべき基準ができたため、心は落ち着き、穏やかになった。
孫長軍さんは卒業後、公務員試験に合格し、地元の鎮政府に配置され、鎮長の補佐として、予備基層幹部として試用された。その時はちょうど2000年初頭で、中共の法輪功への迫害がもっとも厳しい時期だった。テレビ、新聞では連日、法輪功を中傷する報道が行われ、毎日法輪功修煉者達が北京へ陳情に行き、不当に逮捕されていた。孫長軍さんは、どんな事があったとしても自分の真善忍に対する信仰を放棄させることができない、と腹を固めた。2000年初頭、孫長軍さんは職場の責任者に手紙を書いて、自分は北京へ陳情に行くと説明をした。しかし途中で責任者に追いかけられ、留置所に送られた上、1カ月強制的に監禁された。県委員会副書記は孫さんを呼んで面談を行い、「懺悔書(転向し、過ちを悔い改める文章)」を書けば職場に戻れると言ったが、孫長軍さんが拒絶したため、孫さんは職を失った。
2001年9月、孫長軍さんは吉林省の長春市に来て仕事を見つけた。孫さんは一部の法輪功修煉者たちと会うようになり、苦労と危険をものともせず、よく一緒に法輪功の真相資料を街頭で配布した。ある日、孫長軍さんは、ある法輪功修煉者が国営林場のテレビ局で法輪功の真相映像を放送することに成功した、というニュースを耳にした。
もし中国で、法輪功の真実を報道することができるテレビ局が一つでもあれば、人々に最低限の真実を伝える権利があれば、法輪功修煉者達もテレビを通じて予定外放送をする必要はなかったはずである。しかし中共は残酷な迫害だけでなく、すべてのメディアをコントロールして絶えず法輪功を中傷し続けた。テレビを利用した中共の法輪功へのデマは最も酷く、多くの人はまさにテレビを見たため、善良な修煉者達に対して差別、疎遠、ひいては恨みの心さえ生じてしまった。法輪大法はこのように素晴らしく、人々が善と希望に向かう道であるのに、このように嘘によって塞がれてよいものだろうか? 発言の権利すら無い不公平な状況の下で、どうすれば、もっと多くの人に真実を知らせることができるだろうか?
(続く)