文/鐘言(中国)
【明慧日本2011年12月31日】自我を放下した後、1つの大きな変化がありました。業を消す能力は同じではなかったのです。私たちの全ての体の一層一層の微粒子、また最も表面の肉体細胞を含む、全てが高エネルギー物質に代替された後、業を消す能力は極めて大きく向上しました。私たちは以前、常人の肉体で業を消していましたが、それ以降は完全に功で構成された身体で業を消します。あなたのこの生命にはもう肉体細胞がないからです。以前、常人の肉体で業を消すとき、業力が握り拳ほどの大きさほどでもとても恐ろしく、座禅するとき、1キロの業力を押し出されたら痛くて死にそうでした。1人の常人が1トンの業力を肉体に押し出されるとすぐに亡くなり、肉体が解体されます。しかし一旦、全ての身体の一層一層が漏れることなく転化に成功した後、業の消去は取るに足らないことです。以前、師父もおっしゃっられたことがあり、修煉して高次元に到達するとき、業力の不足があれば、親戚、友達に替わって業を消すという、その状況なのです。これはあなたの原始生命がどれぐらい高いのかを指しているのではなく、あなたの一層一層の身体が皆修めて成し遂げたということを指しているのです。そうしなければ、その巨大無辺な業力が押し寄せて来て、旧勢力がまだ修め成し遂げていないその層に業力を多めに押し出せば、その層の身体はすぐに廃棄されてしまします。表面の肉体を高エネルギーの功に転化することはなんと重要なことなのでしょう。私たちの修煉は他の法門とは異なるのです。私が現在の次元の中で認識したのは、私たちは中間から両側へと修め、三界に達するとすぐゆっくりになってきます。なぜでしょうか? その1つの原因は私たちの肉体がまた転化されていないからなのです。どのように全体の身体を高エネルギーの功へ転化することを成し遂げられるのでしょうか? 自我への一切の執着を放下し、先天の自分に全ての生命を主宰させます。これは私たちの最も表面の思想と身体を含みます。
私たちが後天的に形成された「自我」によって法の中で法を認識することは、先天の自分によって法の中で法を認識することと完全に同じではないのです。そのとき、関を乗り越えること、業力の消去、トラブル、迫害と反迫害の中で煩わされず、私たちは衆生を救い済度し続けなければなりません。私たちは彼らに告げます。苦難のゲームはもう終ってしまい、私たちの済度の船はまもなく出航し、私たちはまもなく帰位します。家に帰りたいなら、早く乗船してください。家に帰りましょう! 億万年の待望は今日、皆で一緒に家へ帰ることを待つためです! 続いて、私たちの修煉状態の中に不思議な状態が多く現われました。私たちは皆理解したのですが、円満に対する執着を完全に放下しなければなりません。しかし私たちのこの法門は皆漸悟です。漸悟あるいは開功の時刻が本当に来るとき、私たちも堅く明確でなければならず、公明正大に自らの漸悟あるいは開功を迎えます。私たちはいつも修め、永遠に修めて円満しないというわけではないでしょう。家に帰る準備をする時期に来ました。
高質の静で思考のない状態は、修煉者が自我を放下し人の殻を脱ぎ捨てた後、必然的に現われる状態なのです。邪党が1人の常人を暗室に7日間監禁すれば、その人は必ず狂人になりました。今日の常人は空と静に全く耐えられず、その空と静は常人を発狂させることができます。私たち修煉の境界と次元が高ければ、静の質の程度も高いのです。静であってこそ高次元生命の本当のすばらしい状態なのです。低次元生命であるからこそ、忙しさと喧騒の中で情欲の楽しさを享受できるのです。修煉者は自我を放下できたら、実は徐々に、完全に静で思考のない状態に達することができます。
私たちが真に人から抜けだした後、振り返ってみると、「三つこと」以外、すべての人と物事は皆常人のことであり、私たちの心に影響を及ぼせません。一旦自我を放下し決別した人であるため、私達はまさに神佛が世間で歩むという純粋な状態にあり、それは無比な荘厳であり、発した慈悲のエネルギー場は周囲の人を知らず知らずのうちに変化させるのです。
この数年来、旧勢力は学習者の中に少なくない邪悟者を作りました。それではもし、真にその純粋な修煉状態に入ることができれば、邪悟者を制止するやり方も大きく変わります。それらの邪悟者も修煉を望んでいる人です。以前多くのとき、私たちは人間のやり方を使って何かをやることで、はじめて目の前の苦しい状況を変えることができると、いつも考えていました。実は、師父は早くから次のように説かれました。「いかなる心も動じなければすべての変動を制することができます!」(『米国中部での説法』) 私たちはなぜ師父のおっしゃった「内を修めて外を安定させる」(『精進要旨・内を修めて外を安定させる』)の法理を試してみないでしょうか? いったい誰が私たちの内部に争いがあるのが好きで、全体が同心の状態に完全に達するのが好きではないでしょうか? 私たちはなぜその邪悟者を私たちの中に留め、全体の強大な純粋な場で彼らを浄化しないのしょうか? ですから、鍵は私たちが自分をしっかり修め成し遂げることです。自分が修めて成し遂げられないのは、表面的な物事の善し悪しの中に入り込んでいるからではないでしょうか? 佛光は普く照らせないでしょうか?
以前のことを振り返ると、そのときの私たちはどうして「自我」に由来する観念と執着のため、他人と争って顔を真っ赤にし、さらには憤りで不平を感じたのでしょうか? 私たちはどうして、この苦難の世間の中に敢えてこれほど惑わされてしまうのでしょうか? さらに私たちはこれほど長く修煉してきましたが、相変わらず同修の中でごたごたを引き起こし、気持ちが落ち着かず、あちこちをむやみに動きまわったりするなど、私たちは自分がいったい誰なのかを考えてみないのでしょうか? 私たちがこのようなことをしてしまう時、これらの行為を引き起こし、そして自我の深いところに隠されているものはいったい何なのでしょうか? 私たちの真の考えと繋がっている先天の自分が誰であるかさえ知らない人が、旧勢力の操縦から完全に抜け出せるのでしょうか?
さらに振り返ってみると、私は自らが法の中にいなかったとき、ほんの小さな執着心も取り除くことができず、旧勢力は私の身に思いのままに執着心を植え付け、完全に私を完全に封じ込め、情欲の心、名利心、歓喜心、顕示心などを植え付けました。しかし私が完全に法の中にいるとき、執着を取り除くことはあまりに容易いことでした。
いかなる生命も最後はみな、小さな木屑のように自分を大法の溶鋼に入れて同化していくことができるのです! ですから誰であるかに関わらず、あなたは円満しても、大神通があっても、修めてどれほど大きな威徳があっても、どれほどの衆生を救い済度しても、あなたは最終完全に大法に同化しなければなりません。私たちは生命を大法の純粋慈悲で巨大な真・善・忍のエネルギーに溶鋼のように同化させます。ただし、あなたが大法に同化されたいなら、あなたは最後には完全に自我を放下しなければなりません。
1つ小さい木屑のように自分を大法の溶鋼の中に入れましょう!
(完)