文/中国の大法弟子・清蓮
【明慧日本2012年1月8日】今までネットで「根本的な執着を探す」という交流文章がいつも投稿されてきました。たくさん見ましたが、私は深く学法をしておらず、根本的な執着はないと思っていました。師父の説法に照らしてみても、師父が例にあげられたような人間に当てはまらず、内へ向かって探しても根本的な執着が見つかりませんでした。私は根本的な執着を持っていない人間だと思い込み、喜んでいました。
それから、根本的な執着をずっと探しませんでした。普段の修煉は師父の説法で自分を照らして、トラブルに遭ったら内へ向かって探し、執着を取り除いて、大法の中で修煉していると思っていました。しかし、師父や法を信じ、修煉を続けていると思っていても、大法弟子としてやってはいけないことをしてしまいました。常人のときは度胸が大きい人間でしたが、7.20以後、恐れる心がいっぱいになりました。ある時、正法のことをやっていないにも関わらず、さらに大法に泥を塗るようなことまでしてしまい、修煉に汚点をつけてしまいました。
今までの修煉はそんなに精進しておらず、だらけていました。しかし、師父はずっと私を見捨てられませんでした。2005年10月下旬のある日、とても強い執着を取り除いた後、突然、根本的な執着は安楽を求める心だと悟りました。なぜなら、大法を修煉する前の半年間、仏教を信じていましたが、仏教は極楽世界に行けるからです。仏教の世界はとても美しく、そこでは何もつらいことをしなくても済み、さらに幸せな生活を送ることができます。
そのため、安楽を求める心を根本的な執着として修め始めましたが、他の同修のように精進を保ち続けることができず、修煉状態は悪くなったり良くなったりしました。このことにとても悩んでいましたが、どうしても精進できませんでした。
ある日、根本的な執着は安楽を求める心ではなく、怠惰の心だと気付きました。小さいころから、労働が嫌いで、なんでもやりたくありませんでした。ですから、何をしてもだらだらする習慣をつけてしまいました。安楽の心を求める理由は、仕事をしたくないからだと気付きました。根本的な執着は怠惰の心です。以前はやりたくないことをやり、家事をできるだけやるようにし、会社でも仕事をすぐにやり、遅らせないようにしています。しかし、あるものが私を遮り、ずっと精進できませんでした。
数日前、弟(同修)と法に基づいてどう執着を取り除けばよいかについて交流しました。その時、私の根本的な執着は恐れる心だと突然悟りました。法を得たとき、同修があることを私に話したから仏教(仏教で正式に修煉したことはなく、ただ、仏教の物語を読んだだけ)を放棄し、法輪功の修煉に変えました。大法を修煉すれば、肉体が佛になることができ、死ななくても済むので、必ず大法を修煉しようと当時思いました。今やっと分かりました。大法を修煉するのは死にたくないからです。つまり、私は死を恐れているのです。邪悪が私を迫害するとき、恐れる心が強く表れているのがその原因です。
根本の執着を見つけた時、驚きました。根本的な執着は死を恐れることだったとは夢にも思いませんでした。もし簡単な恐れの心だったら、たとえば、執着を怖がる、間違いを怖がる、迫害を怖がるなどなら、ゆっくりと取り除くことができますが、私は死を恐れていたのです。この肉体に執着していたのです。これが真の修煉者だと言えるでしょうか。
師父はこうおっしゃっています。「生死を放下できればあなたは神になり、生死を放下できなければあなたはやはり人間です」(『米国法会での説法』 ニューヨーク法会での説法)。しかし、私の根本的な執着は死を恐れていたのです。言い換えれば、ずっと生死を放棄していないのです。ですから私はまだ人間のレベルです。法を得て十数年経ちますが、修煉したりしなかったりしていましたので、本当に大法の中に入っておらず、真の師父の弟子になっていませんでした。幾万年待っていた修煉の機縁とすれ違いそうになり、これほど恐ろしいことはありません。絶対に私の中に死を恐れる心が存在してはなりません。死を恐れるのは私ではなく、良くない物質であり、必ず取り除きます。そして、身体の周辺の一層の物質が消えるのを感じました。師父が恐れる物質を取り除いてくださったことに気付きました。
師父はこうおっしゃっています。「人間が世間においてこれらの心を抱いて、素晴らしい追求と願望にあこがれるのは間違いではありませんが、修煉者としては、それではいけません。ですから、あなたがこのような考えの働きかけのもとで大法の門に入ることはかまいませんが、修煉していく過程で自らを修煉者と見なし、今後、本を読み、法を学んで精進していくうちに、自分が入門した時、どういう考えで大法に入ったのかを、はっきりと見分けなければなりません。修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです。大法が中国で受けた邪悪な試練の中で淘汰されたのは、すべてこの執着心が取り除かれていない人です。同時に、大法にマイナスの影響を与えました」(『精進要旨二』「圓満成就に向かって」)
ついに根本的な執着を見つけました。精進している同修と比べれば、根本的な執着を見つけるのはかなり遅かったのですが、ついに見つけることができ、師父の真の弟子になれました。当然たくさんの執着はまだ取り除いていませんが、今後、人を救い済度し、精進する中で取り除いて、円満成就して師父と帰ります。師父が、私のようなだらしない弟子を見捨てられず、忍耐強く待っていてくださったことに感謝します。