文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年1月20日】例4:ある日の朝、子供は早く起きることができず、朝ご飯も食べないまま学校に行きました。これについて私は不満がありましたが、ずっと我慢していました。学校に着くと、子供はもう遅刻すると焦りだして、もっと早くと行くべきだったと私に恨み言を言いました。私はもう我慢することができず「いまさら焦ってどうするの、どうしてもっと早く行かなかったのか」と文句を言いました。しかし話し終えて、私はすぐ後悔しました。考えてみると、最近子供は自己管理がとてもよくできていて、こんなケースはあまりなかったのです。今日はどうしたのかと考えてみたら、私はずっと朝の煉功を続けることができず、今朝も3時に3回、目が覚めましたが、どうしても眠くて起きられなかったのです。なるほど、他人を指摘して自分を振り返って見てみると、やはり同じ類(たぐい)の問題があったのです。
他人のトラブルを自分が目にした時、みな自分と関連があると悟りましたが、最近厳しい問題にぶつかりました。それは最初の1週間は他人の問題であるように見えましたが、問題が発生した第一のタイミングで自分に向けて探す考えがまだ習慣化されてないと悟りました。
最近夫(同修)は師父と大法を信じる心が動揺していました。私は驚いて何回か交流しましたが、効果はよくなく、焦りました(後になってこの焦りには情の要素があると悟りました)。彼は繰り返し、周囲の同修がみな出世間法の状態ではない、と言いました。彼は主に体がまだ完全に高エネルギーによって転化されてない(当然これには旧勢力の阻害がある)ことを言っていました。その時になって私は突然、自分がこの間、常人のものに迷った時間が長く、学法と煉功が彼に劣り、それは「師父を信じない、大法を信じない」ことにほかならず、彼の言葉は私を驚かせました。こうして内に向けて探してみると、本当に恥ずかしいことでした。幸いなことに、その後私は家庭の場を正し、少しずつ正しい方向へと変化していきました。
例えばある時、私に真相資料を送ってくれる同修に対して、私はこの同修がぐずぐずしていると思いましたが、後でよく考えてみると、その時私は家を遅く出ていました。私には普段何かを行うとき、計画より遅くなる癖があり、やはり惰性が取り除かれていませんでした。この類のことは一々述べません。私は自分を探し、自分に向けて探す過程のなかで、自分の心性が明らかに向上していると感じ、まるで自分が今になってやっと、本当の修煉とは何かが分かったような気がしました。
何人かの大法弟子の、彼らの子供との付き合い方を目にして、我が家の状況を結びつけてみると、下記のことが普遍的に存在していることが分かりました。それは子供と話すとき、非難したり、文句をいう場合が多いということです。しかし家族以外の人にこんな態度を取ることはめったにありません。何回も内に向けて探した結果、子供の動きが遅い、怠けている、よく遅刻する、めったに煉功しない、学法が少ないなどという時、これらの問題は自分自身にも起きていました。多くの場合、子供は私たちの鏡であると気づきました。自分の状態がよくなれば、子供にもよい変化が現れ、「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」(『転法輪』)のところを読んで、突然これこそ私たち修煉者と周囲の人との正しい状態であり、ここでいう周囲の人とは遠近に関わらず、親疎に関わらないと悟りました。
功能にふれると、私は真相資料を配布するとき、資料に向けて「資料に接触する人の身にある共産邪霊を取り除き、その人が救われるように」とエネルギーを発してます。これは私が主動的に神通を利用する行為です。またある時私は、臨時で真相資料を送る時間を調整しました。そこで私は、同修が自宅にいて出かけないようにとの一念を発しました。同修には、私がその同修の家に入る寸前、突然私が午後に来るだろうという考えが浮かんでいました。天目が開いて修煉する学習者でなくでも、実際私たちはみな神通を利用することのできる基礎を持っています。ただ、「ますます現代化された道具に依存するようになりました」(『転法輪』)という状態で、これらのことを思いつかないだけです。私はあの日、この部分の法を読む時、やっと突然、この点について深く認識できました。多くの場合、私の思惟はやはり人間の階層にとどまっていたのです。
以上は僅かな体験と悟りであり、同修がみな「法を学びて法を得る 比して学び比して修す 事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」(『洪吟』「実修」)となることを願っています。不適切なところについては、慈悲なるご叱正をお願いします。
(完)