文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年1月21日】私は若い大法弟子です。2008年から大法を修煉しはじめました。法を得たのが遅いことが気になって、私は法を得てから修煉にとても力を入れていました。仕事をやめ、家事もやりませんでした。私は自分なりに、自分は法理についてとてもはっきりと分かっていて、修煉においてとても精進していると思っていました。
周りの同修は法を得たのが早いのですが、多くの同修、特に年輩のある同修は法理において、あまりはっきり理解できておらず、かつ彼らに常に人心が現れているのを見て(実はよく修めた一面はすでに現れなくなっています)、自分がよく修めており、速いスピードで修めており、根基がよいと思い、自分は非凡であるとうぬぼれていました。幼いころより、私には自分が非凡であると思う心があって、それに法を得たのが遅くて、自分が法を正す時期の大法弟子になれないことを恐れて、たくさんの法を実証する仕事をしました。これはすばらしいことで、大きな功を立てることであり、多くやれば自分が多く得ると思い、これは修煉者の責任だからやるということを完全に理解できておらず、人間の貧しい心と法を正す時期の大法弟子になりたい私心から行っていました。
自分の執着が取り除かれていなかったため、魔に隙に乗じられ、私は邪な悟りをし、修煉の道のりで転んでしまいました。とても長い時間をかけてやっと立ち上がりましたが、また一度消沈し、自暴自棄になり、「過去にあれほどよく修煉できていたのに今、個人の修煉状態が前よりとても劣っている。もし転んでなかったら、いかによかったか、そうであれば、とても高くまで修煉できたはずなのに」と思い、とても消極的な心理が生じ、過去に執着して、自分をまた緩めてしまいました。また、師父が「最後まで学ぶことができれば圓満成就することができます」(『米国東部法会での説法』)と説かれたため、心の中で、自分が天上から落ちてきた幸運を拾ったことを幸いに思う心理が生じ、また修煉を緩めはじめ、ただ圓満するのを待つばかりでした。多分この心が天上の神に見えたので、彼らはまた私を転ばせました。
後になって、師父の新しい経文を学び、「私が思うには、大法弟子の前にあるのは着実に修煉するという道のみであり、ほかの道はありません」(『大法弟子とは何か』)ということをやっと理解できました。しかし、一旦精進しようとすると、またよく修めておらず、転んでしまった過去が思い浮かび、頭からずっと離れようとせず、悔やんだり、恥ずかしく思ったりすることをいつまでも繰り返していました。
後になって、私は自慢、消沈、自暴自棄、過去に対する執着、修煉のなかで威徳に対する執着、自分が他人より偉いと思う心(多分嫉妬心が悪さをしている)、自分が犯した間違いを許せない心、意識的に孤高であろうとする心はすべて私心の一面であり、すべて「出発点が間違っていた」ことにより犯した間違いだと分かりました。実際は人間が修めていて、人間が間違いを犯さないわけがあるでしょうか。人間がもしそれほど純潔であれば、それは佛にほかならないのではないですか? それなら、まだ何を修煉するのでしょうか。宇宙は法により正され、大穹は再び組み合わせられていて、衆生はみな救い済度されることを待ち望んでいますが、私はなんと自分の修煉の次元の高さ、威徳の大きさ、自分が法を正す時期の大法弟子であるかどうか、圓満できるかどうかに執着していました。これはどれほど大きな人心でしょうか。はっきり言うと、やはり私(し)より抜け出してなかったです。精進して、着実に修め、衆生を救い済度し、師を助けて法を正す責任は重大であると認識できていなかったのです。
本文を書いた目的は、同修のみなさんが私の教訓を境に、自分の次元と威徳、自分の過去に執着せず、時間と心を人間のことに使わず、更に個人が修煉して得られるものに執着してはいけないことをアドバイスしたいからです。師父は「修煉する心があっても、何か得ようとする心があってはいけません」(『シドニー法会での説法』)と説かれ、もうすぐ圓満する人も圓満のことを考えません。私たちは重大な歴史的使命を背負っています。宇宙の衆生はみな私たちが救いにくることを待ち望んでいます。