文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年2月1日】私は1997年に大法と出会いました。この14年間の修煉で、たくさんの苦難に遭い、またたくさんの回り道もして、何度も転びました。今日法を正す修煉の流れに戻り、自分のかつての修煉の過程を思い返せば、今まで歩んできた道が紆余曲折であったのは、すべて私の修煉の基点が利己心から始まっていたからだとわかりました。
ある集団学法の後に、学習者たちは自分の修煉の中での体験を話し出しました。私は元から学習者が話しているのを聞くだけのつもりでしたが、しかし突然、ある考えがわき出てきました。「なぜ自分にはこの学習者のように人を救おうという慈悲の心がないのだろうか。慈悲心がないだけでなく、常人の中で私は無情であるとも言えます」以前はこれを人の情が少ないからだと認識していましたが、後に家族(学習者)から、自分たちのたくさんの親戚がまだ邪悪な組織から脱退していないと聞いても、私の気持ちはとても冷めていました。彼らが脱退しようがすまいが彼らの自由であると考え、何度も真相を伝えましたが、思想の中に彼らを救うという慈悲心がなかったのです。
学習者とこの考えを交流した後、私は長い間常人社会の中で生きてきたことによって、極端な利己心である「自我」を作り出してしまったことに気づきました。この「自我」の観念の中で、すべてのことを自身の利益に基づいて考えるようになり、ほかの人たちや家族、親戚、友達、同僚などが利害衝突に関するトラブルに巻き込まれても、この「自我」の思考範囲内でないため、興味がありませんでした。だから、私が話す言葉には慈悲の力がなかったのです。真相を伝える時も純粋に人を救うという目的に基づいておらず、それを自分の威徳として積み重ね、円満になるために必ず通らなければならない道とみており、常に自分の知識が豊富で、見識が高いという顕示心理を帯びており、自分の観念を他人に押し付けていたので、その生命のミクロ世界を打ち震わせることが出来ず、真相をわからせて、変異した観念を正し、正確な選択をさせることが出来なかったのです。
自分の修煉を振り返ってみれば、熟慮したり、怖がったり、怒ったり、歓喜心や顕示心理、嫉妬心、利己心など、そして楽を求めたり、負けず嫌いだったりと、たくさんの心理があると思っていましたが、すべては「自我」によるものだったのです。法に出会った最初のころは、自分は円満して六道輪回の苦から逃れ、破滅するような状況にならないようにと修煉していました。法を正す期間では、私は自分が円満できるように天安門に行きました。迫害を受けたときは邪悪に利用された人を憎みましたが、自分が傷つけられるのを恐れて妥協してしまいました。真相を伝えに行くときは根本に、徳を積み重ねて円満にもう一歩近づきたいという目的がありました。常人社会で、自分の利益が侵されたとき、相手のことをいつまでも忘れず、心も狭く、いつか必ず仕返しをしたいと思っていたのです。師父が『精進要旨』の「境界」の中でおっしゃったような「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」という状態でした。こうして長い間、自分の根本的な執着を認識することが出来ずに、かえって自分はしっかりしていると認識し、結果的に自分の利己心が原因でたくさんの苦難に遭い、不必要な損失をしてしまいました。
しかし、こうしたことで、師父が経文の中で旧宇宙について説かれた、「みな他人を変えようとしていますが、自分を変えたくありません」(『北米での巡回説法』)という説法を体験できたのです。「自我」を維持するために自分を変えようとせず、かえって脱落する原因になってしまったのです。そして修煉者として、自分が苦痛に遭う時でさえも自分の内側を探るべきであり、「まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」(『精進要旨』「佛性に漏れなし」)ということを体験しました。
この根本的な執着を見つけた時、私は悲しくなりましたが、自分の思考から「自我」の要素をなくすべきで、自分の利益や感じたものを第一位にするのではなく、何事をするにしてもまずは他人のことを先に考えること、そこから純粋に人を救い、「三つの事」をしっかり成し遂げ、師父が手配してくださった修煉の道を歩むべきだということに気づきました。