――神韻チケット販売における修煉
文/カナダの大法弟子
【明慧日本2012年2月17日】
四、師恩の心を永遠に抱く
無量の師恩は私の最大の修煉体験です。全ての全てがみな師父から、すべての栄耀(えいよう)をみな大法の功績とし、生命が再生された恩を永遠に銘記することは正念です。ある日、車でチケット販売に行く途中、私は法の黙読を始めました。「数々の試練を経た金剛は清純になり」(『感慨』)を読むと、涙がさーっと流れ、何が幸せであるか分かり、偉大な師父の加護の下で法を正す時期を歩んでこられたことは本当に全宇宙で最も幸せな生命だと感じました。車の運転は一路で、涙も一路でした。
とうとうと流れる紅塵の中で千万の輪廻を経て、満身業力の一つの生命が師父に洗浄され、愚かな迷いの中で使命を忘れた一つの生命が師父に喚起され、利己なる本性の一つの生命が大法に浄化されました。師父は私たちに最も素晴らしいものを与えられましたが、私たちに何も要求されていません。私はどのように師父のご恩に報いればよいでしょうか、私はすべてを放棄し、真に大法を修め心を師父に捧げます。
日曜日の夜、1本の歯が揺るんだことに気がついてしばらくイライラし、正念を発しようと考えましたが、夜の忙しさのなかでこのことを忘れました。月曜日の昼、時間をさいて法を30分勉強し、頭がはっきりし、再び歯のことを思い出して、恥ずかしいことでした。私の修煉の道は師父によって按排されており、良いことも悪いこともみな良いことで、師父に感謝すべきです。師父が歯が落ちることを按排されるのであれば、一つの巨大な業をこれによって返したのかもしれず、私は師父に感謝すべきです。歯が落ちなければ、それはまた師父の慈悲です。こう考えると、私は気持ちが軽くなり、歯が落ちるかどうかを全く気にしませんでした。
発正念は師父が私たちにくださった、邪悪を取り除き衆生を救い済度する宝です。多くの大法弟子がまだ大陸で邪悪に迫害されているのに、私はそのために正念を発せず、また衆生を救い済度する多くの仕事に忙しいと正念を発せず、自分の1本の歯のために、自分が楽をしようと正念を発するとは、なんと利己的な生命でしょう。また先週の学法と交流を思い出すとき、皆は衆生を救い済度する時間の緊迫性を感じていました。神韻のために正念を発し、衆生を救い済度するために正念を発すべきですが、1本の歯が落ちるか否かのために正念を発しようとするなど、私にそんな余裕はないと考え、全部放下しました。
五、旧勢力の按排を全面的に否定する
師父は旧勢力の按排を全面的に否定するとおっしゃいました。私は旧勢力の按排を全面的に否定しなければならないと、関連の法を暗記しました。しかしどのように旧勢力の按排を否定すればよいか分かりませんでした。
ある発正念のとき、法理が一瞬にして現れました。とても簡単だったのです。
ある日、チケット販売から帰る途中で、高速道路の出口で車を止め青信号を待っているとき、ドンという音が聞こえ、高速道路から走ってきた車が私の車の後ろにぶつかり、私を座席からとび上がらせました。当時、首も曲がり、両肋骨もズキンズキンと痛みました。そのとき、師父の『転法輪』第四講の中でおっしゃった太原の学習者が車にひかれたその一段の法が頭の中に現れました。私は車を道路の端に止め、車から出ました。相手の運転手も車から出て、若い西洋人でしたが、驚きながら私に「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」と聞きました。その車は片方のライトがなく、元々壊れていたのか、先ほどぶつかって壊れたのか分かりませんでしたが、私はその若い人に「大丈夫、行ってください」と言いました。車に戻ってきた時、私が車をここで止めぶつけられたことは、必ず修煉上にどこか長く止まっていて、私に早く前に進まなければならないことを教えていると思いました。家に帰った後、学法のとき「自我を守る心」を見つけ、それを取り除きました。私の修煉は急速に向上しました。
ある日の朝、起きるとお腹が痛く、お手洗いに2回行き、正念を発するとき、「腹痛」をきれいにする一念を特に持ち、だいぶよくなったと感じましたが、まだきれいに取り除くことができませんでした。ショッピング・センターに着いて、またお手洗いに行きました。戻るとき、私は腹痛を気にせず、「師父を第一位に置きます」と言いました。その後、巨大なエネルギーが身体中に流れ、ますます強くなりました。お昼のとき、その巨大なエネルギーの衝撃で私の両腕、両足が震え、手に持っていたチラシも震えていました。その日、私たちの組は多くのチケットを売りました。
先週の水曜日の朝、雪が降り、車で会社に行く途中、高速道路のY字型出口に、二つの高速道路から出てきて一つの小さい道路に合流する道がありました。私は高速道路から走って小さい道へ曲がりました。当時、雪が降っても高速道路には雪が積もらず、私の車もあまり減速しませんでした。しかし、高速道路と小さい道の繋がるところには氷が張り、周りが暗いため、私は気付かず、車はいきなり氷の上で滑り、曲る事ができず、向こうの溝にまっすぐ突進しました。そのとき、他の車も同時に高速道路の他の出口から走ってきました。その瞬間、私の頭に「師父、助けてください」という一言が浮かんだとき、私の車は自然に小さい道路へ曲がって走り出しました。私はハンドルを全く動かすことなく、他の道から走ってきたその車も私の車についてきて、何事も起こらなかったのです。
会社についた後、私は正念を発しました。1回目のとき、私は旧勢力の私への妨害と迫害を取り除くことを考えたのでした。昼に近い時、私はまた正念を発し、旧勢力の按排を全面的に否定する法理が急に私の前に現れ、この次元の法理が分かり、私は完全に楽になり、続けて正念を発しました。魔難の中から出るために正念を発するのではなく、大法弟子である私は、正念を発し、大法を迫害する全ての邪悪を取り除き、師父の衆生済度を妨害する邪悪を取り除くことは私の責任なので、師父は私に任せて下さったのです。私は一気に30分の正念を発し、頭と身体を感じなくなり、一面の金色の光だけがありました。
旧勢力の按排を全面的に否定するのは実に簡単で、修煉者は心の中に入ったものが師父と法なので、魔難の中でも思いつくのは師父と法であり、旧勢力が按排した魔難の中から出るということではなく、このような大法弟子を誰も動かすことはできません。内に向けて探すことは、修煉者の本分です、どんなことに遭っても内に向けて探す事が師父の弟子に対する要求で、旧勢力の按排とはまったく関係なく、さらに魔難の中から出たいために内に向けて探すのではありません。大法弟子の発正念は師父がくださった私たちの責任と使命です。
(完)