――無条件で自分の内に向けて探し、真の大法弟子になる
文/雲南省の大法弟子
【明慧日本2012年3月4日】ある日の授業の時、ある男子生徒が勉強しようとしないだけでなく、隣の女子生徒を足で蹴っていました。私は彼を睨み付け、彼の魔性を正念で消そうとしました。彼はまた両手で椅子を叩き、とてもうるさかったのです。何分もそれが続きました。私は我慢して、発正念が駄目なら、法を暗唱しようと思い、暗唱しましたが、彼は無視しました。さらに彼は、他の人の机に落書きを始めたのです。ついに我慢できなくなって、私は教材で彼の頭を叩いてしまいました。私は彼に汚い言葉を浴びせられました。
その時、私はなんとか落ち着きました。自分は心性を守れなかっただけでなく、かえって生徒とやり合ってしまって、本当に情けない限りでした。学法、煉功、発正念がすべてひどく妨害されて、心がなかなか平静になれませんでした。
今回は自分が修煉者であることを思い出し、あわてて自分の内に向けて探し、家に帰ってから、自分にどのような人心があるかを探すため、同修たちと交流しました。学法時間が足りない、法が心に入らない、仕事に対する責任感、顕示心、慈悲心が足りないなど多くの人心がありました。同修は、まずは学法からと励ましてくれました。「法は一切の執着を打破することができ、一切の邪悪を打破することができ、一切の虚言を排除することができ、法は正念を固めることができるのです。」(『精進要旨二』(妨害を排除せよ)と師父はおっしゃいました。
そこで、私は毎日の朝の発正念後に煉功し、その後、法を一講学んでから授業の準備を始めました(私の授業は三時限目からです)。特に師父の新しい経文『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』が発表されてから、もっと法を学ばなければならないと気づきました。しかし、根本的な執着心を見つけられず、深く探していなかったため、新しい経文を二度読んでも何も感じ取れず、学法も効果がよくありませんでした。以前のように常人に心を動かされることはなくなり、私は他の教師や生徒のことをあれこれ言わなくなりました。しかし、1週間が経ってもあまり変わりませんでした。
私はもう一度同修と交流し、その同修は私がまだ執着心を見つけていないと言いました。私は再び自分の内に向けて探しました。私はこの学校に来た日から遡って、内に向けて探しました。私は20年間働いていた都市の学校を離れ、待遇も条件も悪いこの田舎の学校に来ました。その時はすべて師父のおっしゃることを聞こうと思い、縁が深く、真相を伝えなければならない所があれば、師父にそこへ按排してくださるようにお願いしました。
この学校に来てから、私は生徒たちに真・善・忍について話し、教師たちには真相を伝えました。2カ月余りの間に修煉を始めた人が1人、その他にあまり精進していませんが2人の年輩の人と、今では3人の教師が大法を修煉し、学校の3分の2の教師が脱退し、担当している四つのクラスの生徒たちも全員が脱退しました。その時は真相を伝え、人を救おうという一心でしたので、師父がすべてをやってくださいました。
残りの二つのクラスに何人かの良くない生徒がいたため、私は差別するようになり、分けて講義を始めました。良い生徒を先に授業しましたが、結果的に彼らの状況はますますひどくなり、今では話すことさえも困難になってしまいました。彼らに授業をした初めの頃を思い返せば、彼らは今のようではありませんでした。腕白ではありましたが、私の話を楽しみにしていたのです。
学期末、私は一見、堂々とした理由で、別の学校に変わりたいと思いました。他の多くの学校にはすべて大法弟子がいません。この学校は大部分がすでに脱退し、大法を学びたい人も学んだと思いました。残りはもう気にしません。自分では法に則っていると思い込んで、私は脱走兵になろうとしていました。結局、ここを離れるどころか、きちんと話を聞いてくれて、全員が脱退した二つのクラスの授業を担当できず、かえって脱退していない二つのクラスと50人ほどの真相を知らない大きなクラスを任されてしまいました。このようになったのは、師父が私に自分を修煉し、真相を伝えて衆生を救い済度させようという師父の慈悲であると私には分かっていました。分かってはいるものの、真剣に自分の執着心を探そうとせず、師父の苦心に対して深く悟っていませんでした。
これらのかわいそうな子供たちは中共(中国共産党)の邪霊に支配され、それに加えて、他空間の生命体の科学技術によって、このような魔性に変えられてしまったのです。そして、私にはまだまだ修めていない人心や観念があり、彼らを救い済度することをより困難にしてしまったのです。師父はこのようにおっしゃいました。「しかし、この道は非常に狭く、非常に正しく行なわなければならないほど狭いのであって、そうしてはじめて、人を救うことができます。」(『大法弟子とは何か』)
私は大法弟子の基準に達しなければなりません。自分の仕事場での考えや行動が大法弟子の基準に合っているかどうかを法で測らなければなりません。このようにしてやっと、修煉の道を真っ直ぐに歩んで行くことができるのです。一つ一つの生命を大切にし、師父の教えをよく聞き、常に慈悲心を持ち、人を固定観念で見ないことです。修煉環境を大切にし、修煉の道をまっすぐに歩んでいきます。
うまく書くことができませんでしたが、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をよろしくお願いします。
(完)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)