【明慧日本2012年3月7日】北京福田自動車貿易有限会社の従業員・田世臣さんは、2010年から法輪功の修煉をはじめた。田さんはナイジェリアで仕事をしていた間、チャイナタウンで友人に、法輪功が中国大陸で迫害されている真相を伝えたところ、中共ナイジェリア大使館に監視され、調査された。2011年12月末、田さんは海外から北京へ帰国した際、空港で不当に連行された。田さんは福田自動車会社の副書記・孟凡義のオフィスへ送られ、4時間調査され、辞職を強いられた。さらに24時間以内に北京を離れるようにと要求され、実家に帰った田さんは16日後、突然この世を去った。
若くして海外市場を開拓した
田世臣さんは1981年10月11日に山東省文登市で生まれた。身長188センチ、体重110キロの偉丈夫だった。彼は農民の家庭に生まれ、両親は彼にとても厳しかった。彼は真面目でよく勉強し、辛苦に耐え、善良で正直な人間に育てられた。2003年、田さんは中国農業大学の公共管理学部に合格し、大学では班長を務めた。2007年に大学を卒業後、田さんは北京福田自動車海外事業部に就職して、主にイラク向けに軽トラックを販売する仕事をしていた。
当時、イラクの情勢は安定しておらず、イラクでの仕事を引き受けようとする人はなかった。そして周辺のヨルダン・クウェート・シリア・西アジアの、まだ開発されてないところまで田さんの担当範囲になった。会社で3カ月のトレーニングを受けた後、田さんは正式に仕事を始め、非常に努力して西アジアの市場を開発した。イランCKDチームのビジネスに協力し、イラク市場の開発に成功した。2008年には1000台以上を販売し、2009年にはイラク市場部門のマネジャーに抜擢され、年間販売量を3000台以上に引き上げ、模範人物に選ばれた。2010年の販売量は3000台以上で、3年間の売り上げは5000万ドルを突破した。
2011年に田さんは海外事業部重トラック部門に移され、駐ナイジェリア代表部門の代表としてナイジェリアに駐在して、重トラックの販売と販売後のフィードバック、パーツ倉庫の立ち上げ、及び市場の拡大を担当した。田さんと接触した取引先はみな、彼をとても信頼していた。彼は正直で善良な人だったため、常に顧客のために考え、彼らに適した車両モデルを勧めた。
国内にいたとき、田さんは、法輪大法は素晴らしく、中共の宣伝とは違うことを知っていた。常に海外で生活する中で、新しい情報を得て、自由にウェブ上で最新の情報を調べることもできた。2010年に田さんは、正式に法輪大法の修煉をはじめた。
修煉を始める前、田さんは偶に酒を飲んでいたが、修煉してからは友人らがいかにすすめても酒を一滴も口にしなかった。修煉する前、顧客が北京に来るとき、いつも田さんに小さなプレゼントを持ってきてくれたが、修煉してからは顧客がいかに説得してもプレゼントを受け取らなかった。一部の顧客はとても気前が良かったが、彼は金銭に心を動かされることはなかった。田さんは業積がすばらしかったため、同僚から嫉妬された。田さんに能力があるという人もいれば、田さんはただ運がよく、棚からぼたもちが落ちてきただけだという人もいたし、このような仕事は誰にでも出来るんだという人もいた。それらに対して、田さんは何も言わず、いつも自分の行なうべき仕事をしっかり行ない、自分によく出来ていないところがまだないかと考え、自分の不足を探していた。
アフリカに駐在中、法輪功の真相を伝えたため、中共に調査される
アフリカに駐在中、田さんは出会った中国人に法輪大法の真相を伝え、チャイナタウンに行って真相資料やCDを配り、また海外のメールボックスを利用して、友人や同僚に真相メールを送っていた。2011年11月に、ある同僚から声をかけられ、田さんは一緒にチャイナタウンに行って、バスケットボールをすることにした。田さんはちょうど真相を伝えるよい機会だと思い、その誘いに応じた。そこには海外で育てられた中国人が2人いた。田さんは彼らと世間話をし、また真相を伝えた。彼らに、「ウェブ上からダウンロードした素晴らしいCDがあるけれど見ませんか?」と聞き、一人に一枚ずつ渡した。その後、田さんの友人がチャイナタウンに行ったとき、ある人から、「あなたの友人はもう来させないようにしてください。大使館から自動小銃を手にした2人がやってきて、彼を探していたが、見つけられなかった」と告げられた(具体的にいつ密告されたかは不明)。
中共大使館はすでに状況を中共安全局に連絡し、中共安全局はまた事情を北京610弁公室に伝え、北京610弁公室は昌平区610弁公室へ、昌平区610弁公室はまた福田自動車会社に伝え、最終的に会社の副書記・孟凡義が田さんを調査することになった。
12月になってナイジェリアの情勢は不安定になり、至るところで爆発が起きた。12月27日、田さんは一時的に帰国することを決め、会社の幹部に連絡した。その時、孟凡義は田さんに対する調査を始め、田さんの以前の海外での同僚と友人に田さんのことを聞き、さらに「彼に知らせてはいけない」と脅し、また「田世臣一家はみな法輪功をやっている」と言っていた。これは中共の上層部から下層部までが、みなこの件に加担していたことを示している。
空港で不当に連行され、辞職を強要される
田さんは12月28日に飛行機でナイジェリアからドバイに飛び、またドバイから北京へ飛んで、29日午後2時半ごろ北京に到着した。田さんが飛行機に乗る前、ある同僚から電話があり、会社が彼を調査していると教えてくれた。空港から出る前、田さんは同僚に「みな、ご苦労様でした、誰かが大使館に密告して、いま私を調査しています」と告げ、同僚に心配しなくてよい、彼らとは関係ないと言った。
田さんが迎えに来た会社の車に乗ったとき、劉偉華(労働組合の主席)と趙勇強(中共工作部の部長)が待っていた。田さんは帰宅することを許されず、一緒に帰国した3人の同僚とともに直接会社に連れていかれ、3人の同僚はそれぞれ調査を受けた。
彼らは田さんを孟凡義のオフィスにつれて行き、携帯電話をかけたり、メールを送ったりしないように要求した。自白するか、家宅捜査を受けるかと聞いた。また保安隊長がビルの下で待っている(彼らの会社の保安隊長は公安局から派遣されてきたようだった)と言った。田さんは家宅調査をするのはだめだと答えた。3人の同僚を尋問する際、劉偉華と趙勇強は「みな、田さんが法輪功をやっていたことや資料を配っていたことを知っている。共産党員が田さんを監視していた」と言った。田さんは最初、法輪功を修煉していると認めなかった。ただ海外でいくつかの資料を見て、好奇心からダウンロードして読み、他人に請求された時、彼らに見せただけだと答え、さらに彼ら(迫害者)に法輪大法が迫害されている真相を伝えた。当時、オフィスには孟以外に副部長の郭月龍が記録を取っていた。その間、趙偉華・劉偉華はずっと孟のオフィスに出入りしていた。
田さんは飛行機から降りてすぐ、不当に連行され、彼の荷物はずっと自動車のなかに置かれていた。後になって、運転手が人の見送りにいかなければならず、田さんの荷物を一緒に帰国した丁塁・彭志国に渡した。彼らはその荷物をオフィスの4階に持っていき、ある同僚に管理してもらった。後になって、趙勇強は田さんの荷物を見つけ出して、孟凡義のオフィスに持っていき、荷物の中から法輪功の真相を伝える資料と法輪功の関連書籍を見つけ出した。3時間半から4時間にわたる長い調査の後、中共のメンバーは田さんに二つの選択を与えた。一つは、法輪功修煉をやめて法輪功の関連書籍と資料・パスポートを納め、今後何もせず、ただ毎日中共の関連部門に行って思想報告をし、検査を受けること。二つ目は、会社を辞職し、今後会社とは何の関連も持たないこと。会社は田さんと一線を画しようとしていた。また彼に24時間以内の安全しか保障できないと言い、彼に早く会社を離れるように告げた。
田さんは法輪功の修煉を続ける決意をした。そのため強制的に辞職届に署名させられた。その際、田さんは「私個人が法輪功を修煉していることは、会社の理念と符合しないため、自ら辞職を申し出、同時に共産党から脱退することを声明する」と、離職届とともに、中国共産党からの脱党を宣言した。孟凡義は「脱党できるということは聞いたことがない、こう書いたら上に報告できない」と言い、田さんに「私個人の信仰は会社の理念と符合しないため、自ら辞職を申し出る」と再度書かせた。田さんは宿泊所に戻り荷物を整理したが、荷物の中から3100米ドルが無くなっていることに気付いたが、そのまま故郷へ向かった。
帰宅後の突然死、毒殺か
田さんは12月30日の昼に家に到着した。はじめの2日間は体に異常がなかったが、2012年1月1日の午後、田さんは体が少しだるいと言い、1月2日にシャワーを浴びた。夜になると、全身に熱が出始め、四肢が動かせなくなり、下痢が始まった。最初は「帰国したばかりだから疲れているんだ。また時差が大きいし、環境の変化になじんでいないからだろう」と思っていた。彼自身も、数日間休めば良くなると言っていた。しかし4日、5日経っても体調は好転せず、更に酷くなっていった。6日、7日になると体が黄色くなり始め、目まで黄色くなり、下痢や嘔吐をし、食事の量も以前より減り、尿も黄色くなった。彼はスポーツ選手で、体が非常に丈夫だったため、いままで病院に行って注射したり、薬を飲んだりしたことがなかった。16日の朝、田さんは突然この世を去った。
親戚達が田さんの遺体を見て、「何かがおかしい…。まるで毒殺されたみたいだ」と言うまで、田さんの家族は田さんの死因について全く疑っていなかった。火葬された骨は赤くなっており、特に上半身は、下半身より更に赤かった。健康な人の骨は赤くなるものだろうか? 経験のある人は、「毒を盛られたときだけ、このような状況が現れる」と語った。この時、田さんの家族はやっと、悪人の陰謀を理解した。しかし、いつ毒を盛られたのか? どんな毒薬なのか? 誰が、どのように毒を盛ったのか? 家に帰ってから死亡するまで16日間しかなく、食事も寝るのもずっと家族と一緒で、部外者と接触していないため、毒を盛られたのは家に帰る前であるはずだった。
家族は北京へ行き、死亡原因を調べた
このような疑問を抱えて、2012年1月31日、田さんの家族は北京へ行き、福田自動車会社の幹部と同僚から状況を聞いた。田さんは突然会社を辞めさせられたため、一般社員は辞職の理由を知らない。会社は一般社員に、田さんは自己都合で辞職したとしか知らせなかった。ただ会社の上層部はある程度状況を知っていた。2月1日、田さんの家族は孟凡義を直接探して、当時の状況について聞いた。孟は「田さんの家族が事情を調べたい気持ちは理解している。記録があるからそれを家族に見せる。また自分は田さんに対して同情的だった。書類は会社の幹部に渡さず、自分が持っている」と言った。書類には田さんが書いた2通の辞職願があり、新しく発行されたパスポートと、9ページに及ぶ談話記録があった。
(注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)