文/河南省の大法弟子
【明慧日本2012年3月17日】最近、2012年の神韻公演のDVDのシールを印刷していた時、プリンターが二回故障しました。インクカートリッジを認識してくれませんでした。インクカートリッジのランプはついているのに、この最新の4900というプリンターは認識してくれませんでした。神韻は収録されたばかり、そして今は新年であり、ちょうどいい配布時期でした。学習者たちの需要がとても多く、やり続けていても供給が足りないくらいなのに、機械はこの時期に限って故障しました。いらいらしないわけがありません。もちろん、焦っていても何の意味もありません。修煉のことは修煉の解決方法を取らなければならず、心性上から内に向けて探し、ようやく問題を解決したのです。
一回目の故障は、解決に一時間ほどかかりました。私はまず自分を探り、楽をしようとしている心理や学法が少ないこと、自我を証明したい心理などを探し出しましたが、問題は依然として解決しませんでした。また発正念やプリンターに話しかけたりなど、繰り返し試して、様々な方法を使い果たしましたが、解決できませんでした。結局どうすることもできず、私は師父の写真の前で師父に啓示してくださるようお願いし、そして、その場に座り心を静めて自分の内に向けて探り始めました。その時、ふと問題を見つけ出しました、原因は、私が心を使うべきではない所に使ってしまったことでした。最近、私は朝起きて、シールを印刷する前にまずネットサーフィンをして動態ネット上の新聞を読み、夜にパソコンの電源を落とす前もネットサーフィンをして新聞を読んでいました。読む時間は短いのですが、心の中ではいつもそれを気にしていていました。これは心を間違った場所に使ったのではないでしょうか? 自分の問題を発見し、すぐにプリンターの動作を試したところ、機械は直りました、何の問題もなかったのです。これは自分の良くない心理が虚像を作っていたのであって、機械の問題ではありませんでした。
二回目の故障は解決に二時間もかかり、問題解決後に自分の悟性が悪すぎることに気づきました。当然、一回目の体験があるので、最初、間違いなく自分の内に向けて探しましたが、今回は効きませんでした。自分を探ったり発正念をしたり、プリンターと交流するなど、すべて効きませんでした。時間が経つと、いらいらしたり、恨んだりし始め、協力していないとプリンターを責め、またこのような虚像を作るなら廃棄すると脅かし始めました。ひいては呪いをかけようとする意志まで出てきてしまいました。しかし、プリンターは気にすることなく、依然として故障したままでした。最後に技術の分かる学習者に修理してもらおうかと、諦めかけました。この時、ふと思いました。また自分の内に向けて探さなければなりません。問題は仕事をこなすという心理でした! 突然わかりました。仕事をこなすという心理が出てきたのです。ここ何日間はやることが多く時間がなくて、知らず知らずの内に仕事をこなすことを修煉として見ていました。この心理を探りだせることが出来たのは、師父が啓示してくださったおかげなのです。なぜなら、突然わかったのですから。これはなかなか悟れない私を見て、師父がヒントをくださったのではないでしょうか。今度は正しかったようで、プリンターはすぐ正常に作動し、時間に間隔は無いようでした。師父が弟子たちの精進のために費やされた苦心を痛感し、同時にプリンターにも申し訳なく心から謝りました。
私の体得:修煉の中のたくさんの問題は全て自分の人心が原因で、自分の人心から生まれたもので、自分の心から生まれたものは、自分の心から消さなければなりません。師父は我々に宝物を与えてくださいました。自分の内に向けて探し、無条件に心を静めて探せば、すべての問題が解決し、不可能は存在しません。無条件に心を静めて自分の内に向けて探し、表面的にざっと見るだけではいけません。ある時ある問題に直面した時、本当に作用し影響しているのは何らかの人心であり、正しく探り出せば、問題は直ちに解決するでしょう。師父が病を治すことをおっしゃっていたように、それぞれの病にはそれぞれに対応した功能で治すのであり、何もかも(人心を)並べたてれば解決するわけではありません。それでは却って何の人心なのか、結局自分もわからなくなってしまい、本当の問題点を覆い隠してしまう可能性もあります。たくさんの学習者たちはどのように内に向けて探せばいいのかわからず、もしくは探り出せず、たくさんの人心を探りだしたけれど、問題は解決しないなどと言っています。内に向けて探すという法理は、みな言うことができます。では、どうして方法は知らず、探り出せず、もしくは探り出しても何も変わらないのでしょうか。実は正しく探り出せておらず、本当に作用し、修めるべきものを正しく探り出していないのです。我々は俗世間の中で修煉し、様々なところで少しずつ人身を表しています。しかし、あるものは日常生活を維持するために故意に残されたものであり、あるものはそれぞれの層で修めるべきものなのです。我々が直面している問題は、普通は自分の全ての人心によってもたらされたのではなく、その(もしくはそれらの)もっとも肝心な人身を探りだすことができれば、自分がいる層での要求を満すことができます。
以上の体験は私が今理解したものです。次元に限りがあるので、同修の参考になれれば幸いと思います。