文/シンガポールの大法弟子
三、マイナス思考を排除し、旧い観念の枠から出る
RTCに入った当初、私はある協調人と1時間程交流しました。彼女はとても忙しいのですが、それでも時間を作って私の状況を聞いてくれました。彼女は口数が少ないのですが、一言一言が法に沿っていました。彼女は私にマイナス思考が多いことを指摘しました。共産党の教育の影響で私は自分の修煉状態が良くなく、党文化の思想も多く、いつになったらそれらの全てを排除出来るのか、ずっと困惑していました。彼女はこう言いました。「それらのマイナス思考を認めてはなりません。それはあなた自身の本当の考えではないのです。それらを否定し、滅しなければなりません」法理は分かっているつもりでしたが、修煉の過程において、私は依然としてそれらが自身のものだと思い、常人の観念を持って対処し、常人が自分の欠点を直すような行ないをしていました。
修煉を始める前、私はよく物事を悲観的に考えていました。そうすれば悪い結果が出ても失望も小さく、受ける打撃も小さくて済みます。常人がよく言うように「希望がなければ失望もない」と思っていました。
修煉を始めてから、このマイナス思考は多少減ったものの、法を実証する事において、依然として一つの障碍になっていました。例えば、観光地であるマーライオンへ真相を伝えに行く前に、真っ先に思いついたのは、警察に身分証をチェックされるのではないか、警察に出会ったらどうすべきかなどなどでした。時には、マイナス思考があまりにも多く、結局家から一歩も出られなくなったこともあります。今でも、このマイナス思考は影のように私に付いています。脚が痛くなったら、明日、起きられなかったらどうしようとよく思います。RTCに入る前、これが正しい念でないことをはっきり認識できませんでした。RTCでの同修との交流によって、私は始めて分かりました。マイナス思考は正に正念の不足で、それは後天的に形成された観念であり、法に則っていません。
これが旧勢力の私への思考方式の按排だと認識出来た時、私は正念とは何かについてはっきりと理解できるようになりました。今は、私のマイナス思考が徐々に少なくなり、正念も段々と強くなってきました。旧い観念も排除されています。
私が電話を掛ける際、時には子供に出会います。私は子供は真相が分かりづらいだろうと思い、つい、親に電話を代わるように頼みます。その後私は考えを改め、直接子供に少先隊員かどうかを尋ね、そうである場合、子供にその赤い布を首に締める事の恐ろしさや共産党が働いた悪事を説明し、心から退隊を勧めました。そうしたら、彼女は快く退隊をしました。大法の真相を言っても分からないだろうと思ったのですが、彼女に電話を切る気配がないので、続けて真相を伝えたところ、彼女は全部分かりました。彼女はまるでこの電話をずっと待っていたかのようで、私もこの経験によって観念が変わりました。
四、真に師を信じ、法を信じる
RTCというグループ修煉の環境に入ってから、私は交流の重要性を実感しました。そこでの同修の一言が私に自分の執着に気付かせ、自分の遅れを発見し、更に追いついていく事につながりました。時には、同修の悟りを共有する事によって自分の問題を見つけやすくなることもあります。例えば、私はいつも自分の事を悪く評価し、自分の欠点をさらけ出す事が良い事だと思っていました。同修の意見によりわかったのですが、それは常人のいわゆる美徳で、謙虚を修煉だと誤解していましたが、そういう行為は大法に則っていない上に、結果的に自分を自信の欠如に追い込むだけでした。
私は小さい頃から非常に自信が足りない人間で、大法の修煉を始めてからもなかなか改善が見られず、日々法を読んでいても何かを習得した感じがなく、心性の向上も感じませんでした。そのため自分は法をよく学んでいなかったと思った事もありますし、発正念の時、何の感覚もなく、コンピューターを学ばなければと思うと、自分の歳を考えて気後れを感じたり、RTCで司会者になってほしいと言われると、自分には力不足だと思ったりしました。同修の指摘によって、私は初めてそれらの全てが間違った観点で排除しなければならないものだと認識出来ました。
私はずっと自分が師を信じ、法を信じる事ができ、師父の仰ることの全てを信じていると思っていました。しかし、何かの問題に遭遇したら、つい自分の考えに沿って対処してしまいました。師父は大法弟子には神通があると仰いましたが、私は自分がその範囲外だと思い、師父は大法弟子の皆が偉大で、衆生の唯一の希望だと仰いましたが、自分は除外されていると思っていました。私は大法弟子のやるべきことを師父の要求通りやりながらも心の中では自分は駄目だとずっと思い、この一念に阻害されて発正念をしても効果がありませんでした。後に分かったのですが、自分を信じないことは師父と法を信じないことに等しく、正念も強くなるはずがありませんでした。
師父は『大法弟子とは何か』の中で仰いました。「一人の大法弟子は正念が非常に強ければ、山を切り分けることができ、一念でやり遂げてしまいます」私が真に師を信じ、法を信じることができた時、私には本当に神通が現れました。私の孫は小さい頃高熱を出したことがあり、その時の彼女は目を固く閉じ、唇が真っ青になり、手足が冷たく、意識がもうろうとして、息を吐き出すばかりで空気を吸い込むことができませんでした。このような緊急事態の中で、私は彼女を抱きかかえ、師父に救いを求めながら娘に発正念をするように言いました。主人は病院に行くよう促しましたが、私は冷静さを保ち、心の中では固く師父の救いを信じていました。1分も経たないうちに、孫は「ハ-!」という声を出して、長く一息を吸い、目を覚ましました。暫くして熱が引いた彼女は、いつも通り元気に遊ぶようになりました。私はいざという時に慌ててしまうタイプの人間ですが、今回に限って冷静に対処出来ました。考えてみると、やはりその時、私は真に師を信じ、法を信じるようになったからだと思います。
もう一つの経験もありました。同修が不当に控訴された裁判の最中、私は開廷の直前、法廷の上空に大きな黒い雲がかかっているのを見ました。これは邪悪の働きだと思い、すぐに発正念をしました。暫くすると、その雲が散ってしまいました。信じがたい経験でしたが、当時の私は雑念がなく、穏やかな心を持って師父を信じたから、神通を発揮できたのだと思います。
また、最近こんなことも経験しました。事件当時、私は前後に二つの違う念を発し、二つの結果が生まれました。数日前、私は高い所からあるものを取ろうとして、体のバランスを崩し、パタッと床に倒れました。その時、私はすぐに、自分は修煉者だから大丈夫だと思うと同時に、自分の脚が最近不便だからひょっとして立ち上がるのに時間が少しかかるのではとも思いました。二つの観念から二つの結果が生まれました。私は本当に暫く動くことができず、家族に支えてもらってやっと立ち上がりました。その後、体に何の異常もなく、痛みやあざもありませんでした。この経験によって、私は更に正念について、そして師を信じ法を信じる事について、はっきりと認識できるようになったと思います。
以上は私の最近の修煉体験ですが、不足の部分があれば同修たちの慈悲なるご指摘をお願いします。
(完)