文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年3月23日】昨夜、突然分かったのですが、真の修煉者なら孤独になるはずがなく、特に今日、偉大な師父と一緒にこの世にいる「法を正す時期の大法弟子」にとっては、「孤独」という言葉すら存在しないと思います。今の私達の時間は、偉大な師父が全ての衆生の業力を背負い、全ての生命に少しでも最後に救われるチャンスがあればという思いで、一分一秒を伸ばして下さったものです。その目的は、私達「法を正す時期の大法弟子」がより多くの人を救えるようにすると同時に、大法弟子とそれぞれの世界の衆生が更なる高い果位を成すためにあります。
師父は説ける法の全てを私たちに説かれ、旧勢力とは何か、思想業力とは何か、人心とは何か、なぜ安全の問題に気を配らなければならないのかなどなどについての法理を、明白に説かれました。ただ、時に、私たちは自我に囚われ、自己の悟りが正しいと思い、その感覚に従って理性を保てずに行動してしまいます。大法の事をする際、なぜ自分はこうすべきなのか、なぜこれらの常人がやるような事をしないといけないのかについて、はっきりと認識しないままやり続け、その効果も思った通り良くありません。もちろん、これらの全ては私達が修める過程であり、法理が徐々に分かるようになってからの心性の向上の過程でもあります。今の私は少しずつ成熟し、師父の説かれた明白な法理についてはっきりと分かるようになり、それらの全ての法理は真の現実であり、常人社会のいわゆる現実と違って、真の宇宙に存在する要素と問題です。師父の弟子として、これらの全てを理解し、理性を保ち、法を徹底的に学ぶべきです。また、師父が要求された大法弟子のやるべき事には必ず理由があって、その全ての天機も大法弟子が徐々に分かるようになると思います。
一部の同修は法を学ばず人に学び、他人のやり方を真似たり、他人にどうすべきかを聞いたり、また、良く修めていると思われる同修を見つけて問題を聞いたりすることを好みます。場合によっては、伴侶を見つけて結婚し、互いに頼り、知らないうちに情に溺れてしまいます。この類の同修は理性がなく、常人の情に流され、依頼心が強く、能動的に法の中から答えを見つけることをしません。私たちは主意識を修めているので、人にはそれぞれ修煉の道があり、成就するものも違うのに、何でも他人のまねをしたら結果的に自分はどうなるでしょうか? このような同修を見ると、本当に焦りを感じます。師父がおられ、法もあるのに、なぜ真に自分の心を修めないのでしょうか? できるだけ自分の見つけた全ての人心をなくしましょう。もちろん、一部の夫婦の同修は良く修めており、周りの同修と協力し、法を実証するプロジェクトを実行することによって、大法の素晴らしさを立証しました。
師父の指導により行われている「神韻公演」についてですが、これほど美しいものなら、私たちは真相資料を作る際、自分の外見を磨くように心を込めて制作すべきだと思います。私達は自分の手から出ていく真相資料の一つ一つに責任を持ち、単に数量を求めるのではなく、その品質にも気を配り、確実に大法の素晴らしさを実証し、真に人に与える大法のイメージを考慮すべきだと思います。私たちは自分自身の外見が人の目にどう映るかを考える際、服の色の配色やデザインなどを気にしますが、大法のことをする時も上辺だけでなく、真に心を込めて取り組むべきです。
先日、私は海外の同修が神韻を紹介する前に研修を受けている事を聞き、こう思いました。それは、何かの組織の会社ではなく、何かの販売ノウハウを伝授するものでもありません。それは同修達が多くの人を救えるように、いかに美しい言葉、美しいイメージを持って常人の人間の一面に感動を与え、もっと容易に人々を眠っている記憶から呼び覚ますかを工夫しているのです。私たちは資料を作る際、資料を配る際、そして資料を紹介する過程において、その資料をもっときれいに仕上げるべきだと思います。私たちは金のためでなく、名、利のためでもなく、ただ衆生がそれを見て、聞いて、真相を分かることによって救われるためにやっています。なぜならば、これは彼らが救われる唯一の希望となっているからです。正に『洪吟三』の歌詞「あなたを救うのは本当に難しい」の通り、本当に人を救うのは容易なことではありません。
「師への賛歌」という歌を聞くたびに、私は涙を流し、師父の苦労を思い、この世に来る前の自分の誓いを思います。私は本当にやるべき事をきちんとやりましたか? 後悔はありませんか? 時に、私は難しさを感じ、時には疲れを感じ、時には孤独を味わい、時には誰かにそばにいてほしいと思いますが、これら全ての人心は突破すべき関です。一歩一歩突破する事は成仏する道を歩むことです。全てをはっきりと分かるようになったら、自分は何のために生まれ、何のためにこの世に来たかが悟れます。これからの道はどんなものであれ、千難万難があっても、私はしっかりと歩むつもりです。私は自分が大法に同化する一つの粒子であること、法を正す師に手伝う大法弟子であること、また、衆生を救うことを常に念頭に置く大法弟子である事を分からせていただいた師父に感謝します。このような私がどうして孤独になるでしょうか? 大法弟子としてやるべき事をきちんとこなせない時こそ、孤独を味わうことになるのだと思います。