文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年3月25日】 偉大なる師父、こんにちは! 大法弟子の皆さん こんにちは!
ここで私の人生の道と13年来の修煉経験を簡単にまとめて、師父と同修の皆さんにご報告させていただきます。不適切なところがあればご叱正をお願いいたします。
一、幼年の不幸
私は、50年代に炭鉱労働者の家庭に生まれました。5人兄弟の末っ子でした。父一人の安い賃金で、一家7人の生計を立てなければならず、苦しい生活状況にありました。やむを得ず、母は1歳過ぎの私を田舎に住んでいるお婆ちゃんのところに送り、私はしばらく家族と離れて生活するようになりました。60年代の始めは中国全体が食糧不足に陥って、深刻な飢餓災難に襲われていました。当時の私はガリガリに痩せていて、しかも多くの病気を患っていて酷い栄養失調でした。仕方なく母と一番上の兄は、田舎まで私を迎えに来てくれました。気息奄々としていた私を連れて帰宅する途中、川を渡ろうとした時、母はもう望みがなさそうな私を見て、布できちんと包んだ後に川の中に投げ込もうとしました。その時、兄は手を私の顔に当ててみて温もりを感じたので、頑として家まで私を連れて帰りました。
自宅に戻りましたが、病院に連れて行くお金がなく、私はしばらくお粥のつゆで栄養補給して、やっと生き返ることができました。しかし3、4歳になっても私はまだ歩くことができませんでした。兄と姉達は16、7歳ぐらいになると、もう働きに出掛けました(実際は違法の児童労働者でした)。当時は「勉強は将来に役立たない」、「労働は名誉あること」という理論に洗脳され、私はしょっちゅう学校をサボって宿題も真面目にやっていませんでした。家計を助ける為、私はいつも母に言われて同年齢の子供達と一緒に豚の餌になる草を刈りに行っていました。毎年お正月になると、大きく育て上げていた豚を食べ、家族の食事を少し改善できました。私は労働適齢期になると、何とか中学校に卒業証書を発行してもらい、社会見学として農山の村々を回ったりして、仕事の後継ぎを待つばかりになりました。
二、成年の苦労
父が定年退職してから、私は後を継いで働き始めました。それから自分の家庭を持つようになって元気溌剌な可愛い女の子を授かりました。自宅付近には広いグラウンドがあって、草花と樹木が茂っていて緑はいっぱいでした。夏が来ると納涼に最高な場所だと知られて、人がたくさん集まっていました。私もよく同僚達を誘ってグラウンドで踊ったりトランプをしたりして、娯楽活動を楽しんでいました。たくさんの友人と交際できて幸せな日々を送っていました。
しかしその幸せは長く続きませんでした。主人は労働災害で足に大きな怪我を負い、まもなく工場も倒産しました。従業員は解散して、月々180元の退職金で生計を立てていました。仕方なく、主人と最寄りの県まで引っ越して小さな料理店を営むと決意しました。しかしちょうどその時、主人の胃癌が発覚して、まさに弱り目に祟り目でした。治療費に困って毎日涙を流していました。
主人が亡くなったのは娘が入学する年でした。家庭の大黒柱と私の精神的な支えは崩れ、始めは三輪車を漕いで荷物を運搬する仕事で生計を立てていました。その後は電子工業学校での雑用の仕事が見つかり、2つの教棟を清掃する以外に、千名以上の生徒さんの布団カバーとシーツを洗濯して、月々300元をもらっていました。暇があれば生徒さんの洗濯物を洗ったり、生徒さんの要らなくなったノートと紙を拾ったりして、さらに月々に300~400元の副収入を稼いでいました。体を酷使していた為、1食で1斤ものご飯を食べていました。当時の私にとってはなかなかの収入で、大変満足していました。しかしその仕事も人に横取りされ、長く続きませんでした。私は解雇されました。再び人生の十字路に立って、私は途方に暮れました。
「天は人の道を絶やさず」、知人の紹介で河南省でのホームヘルパーの仕事が決まりました。私は考える暇もなく娘を寄宿中学校に入れて、勤務条件を一切要求せず、急いで車に乗って北へと向かいました。日常生活が不自由なお婆さんの身の回りの世話をする仕事が始まりました。昼間は家事と炊事、夜は添い寝をしながら寝返りさせたり排泄を気にしてあげたりなど、何度も起きて最初はなかなか慣れませんでした。しかし特に2人のご老人は、私の事に気を配ってくださり、とても親切でした。私も実の親に接しているかのように2人を一生懸命に介護しました。その時の収入は月々500元もありました。住み込みで食事付きなので、余計な出費を心配しなくてよく、憂いのない生活でした。それが10年間も働き続けてこられた理由でもありました。別れる時は本当に離れ難かったです。
(続く)
(第八回明慧ネット中国大陸大法弟子修煉体験交流会)