文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年3月26日】
三、幸運なことに法を得られた
仕事で何よりも最大な収穫は人生の帰途が見つかったことです。大法を得られました。私の人生の前半は確かに失意が多かったけれども、困難を前に、私は打ち倒されませんでした。時には人生の謎が解けないまま戸惑うことがあって、娘さえいなければ山や廟にでも入って出家したいと思うことが多々ありました。
『転法輪』を学んでから、人が生まれてきた目的は法に出会って返本帰真することだと、すべての謎が自然に解けるようになりました。しかし私のような字が読めない者は繰り返し師父の講法のビデオを観て、師父の講法の録音を聞くことしかできませんでした。最初、同修達と一緒に『転法輪』を読み、それから字を勉強しながら『転法輪』を読んでいました。半年経ったところで、やっとの思いで『転法輪』を一遍読み終えました。それから1カ月で『転法輪』を一遍読む事ができるようになり、最後は一日で『転法輪』の一章を読めるまで進歩しました。字を読むことの関を乗り越えました。現在では師父の講法なら、すらすら読めるようになり私の身に大法が奇跡をもたらしてくださいました(大法以外の書籍或いは雑誌、新聞なら相変わらず読めません)。
四、丸暗記で資料作成
学法と煉功の関を突破したばかりの頃、つまり大法の門に足を踏み入れた時に1999年“7.20”の天地を覆い隠すかのように残酷な迫害が始まりました。高圧的な状態に置かれた人々の中には、恐怖心から煉功を断念する人が少なくありませんでした。私はその悪い環境による影響を全く受けませんでした。相変わらず学法と煉功を続けていました。迫害と反迫害が進むにつれて、私は真相のチラシを街頭に出て配り始めました。
理不尽な迫害が始まってから、私達は真相資料を作る為にパソコンを購入しました。しかし全くパソコン知識がなく、どう使えば良いかについて全く自信がありませんでした。私は低い教育しか受けていない為、英語のアルファベット、中国語のピンインを全く読めませんでしたが、ただし正法の為ならきっと師父から智恵をいただけるという確信だけを持っていました。意味も分からないまま、丸暗記の方法でやってみたら、意外と速く資料のダウンロード、「明慧週刊」、「明慧新聞」、真相宣伝資料のプリントアウトのやり方を覚えました。少しずつ小冊子の編集と大法書籍の印刷、「共産党について九つの論評」「党文化を解体する」の印刷方法をマスターしました。写真の印刷と編集、ネットでの「三退」声明、DVDへの書き込み等など、要するに資料点の事なら何でも処理対応できるようになりました。以上述べたすべては自己顕示ではなく、私の身に大法が奇跡を起こしたと実証したいからです。
資料作成している中で、たくさんの同修が真相を伝えて衆生を救う為に貴重な生活費からお金を捻出していると知って、私も1月の収入から500元を資料作成に使いました。お金は私にとってどのぐらい大事なのかは内心では良く分かっていましたが、それにしても衆生を救う為なら惜しみませんでした。
修煉すると共に心性も向上しました。教育レベルが低いけれども私の考えは純粋でした。困難の前で一度も恐れることがなくいつも楽観的でした。仕事に対して報酬にこだわらずに一生懸命にこなしてきました。ご老人たちにいつも笑顔で接していました。自分が多少苦労しても、彼らに最善を尽くしていました。いつも困っている人を見かけると必ず手を差し出していました。1人の同修が長年にわたって病業の関門に直面していると知って、もう1人の同修と一緒に無条件に日常生活が自立できない彼女をお風呂に入れたり家事を手伝ったりしていました。彼女は何度も報酬を渡そうとしていましたが、私達は一銭も受け取りませんでした。警察が大法弟子を迫害する記事を読むと、いつも涙が止まりませんでしたが、自分が迫害を加えられた時は正々堂々として平然とした態度で恐怖心が全くありませんでした。
ある日私が警察に捕まって刑務所に不当に1カ月も拘禁されました。毎回の取調べに対して、私はすべて知らないと答えました。警察が机を叩いて私の態度に怒り始めましたが、私はもっと強い勢いで机を叩いて返しました。最終的に警察は私の強大な正念に負けて、無条件で私を釈放しました。
故郷の親戚、親や友達を救おうとの念願を叶える為(今のホームヘルパーの仕事は休みが取れず、故郷からの距離が離れているため言葉の制約があります)、私は思い切って十年も一緒に暮らしていたご老人や同修達とお別れして、帰省の道を選びました。故郷できちんと「三つの事」を行い、切なる願いを実現して師父に恩返したいと思っております。
(完)
(第八回明慧ネット中国大陸大法弟子修煉体験交流会)