文/湖南省の大法弟子
【明慧日本2012年4月6日】
(一)恐れる心を取り除く
私の職業は会社のコンピューターシステムの保守です。どんな時でも良い人になるよう私は自分を厳しく律しています。日常生活のことでも仕事でも、いかなることでも私は人と言い争わず、誰に対しても礼儀正しく、仕事で辛い思いをさせられても弁解しないので、私は自分がとても「忍耐」強いと思っていました。毎回トラブルが起きた際、「相手を救うために、常人と対立してはいけない」と考えたので、私の忍耐はだんだん気の弱い我慢になってしまっていました。物事の是非を問わず、ひたすら我慢していると、仕事の中で明らかに私のミスではない時も、わざと私に意地悪をする同僚がいました。
最初、みんなはごく普通に私と付き合っていましたが、私の無原則の我慢を見て、多くの同僚はだんだんと私をいじめ始めて、大声を出したり、尊敬しないようになったりしました。私と仲の良い同僚も、「あなたは、弱すぎる」と言っています。私もこんな情況はおかしいと思いましたが、自分のどこが間違っているのか、「真・善・忍」に従って良い人になろうとするのは間違っていないのでは、と自分でも悩んでいました。
それから、明慧ネットで「邪悪に対して弱気を示さない」というタイトルの文章を読みました。作者は「うわべだけの善良さは、かえって邪悪の気勢を助長して、邪悪を更の邪悪にさせている」、「大法弟子は人間関係を対処するにあたって、硬い態度をとるか、それとも柔らかい態度をとるかという問題がある。日常生活の中でも理不尽ないじめと悪人に出遭う時がある。それに対して、まず心性を高める良い機会だと思って無条件に内に向けて探す。一方、無原則に譲歩することを止める。必要に応じて事情を説明して相手の間違ったところを指摘するのも必要。常人の理不尽ないじめ、人を馬鹿にするにも程があるような状態は悪と魔性の現れなので、度を越えた譲歩も彼を更なる悪人にさせることに等しく、彼に多くの業を作らせることになる。相手のために思い遣るなら、適切に発正念して、あるいは他の方法でその魔性を抑制するべきだ」と書いていました。
ここまで読んで、私の心はぱっと開かれたようになりました。今まで自分は「善」に対する理解が浅くて、ただ「お人よし」をしてきて、それは法輪大法が求める「善」、真に相手のためを考えるという「善」から遥かに遠かったのです。深く掘り下げてみると、自分の恐れる心を発見しました。同僚と言い争ったら今後真相を伝えにくくなるのではないか、私が法輪功を修煉していることが知れたら告発されないか(以前、似たような事が起きた)などを恐れていたのです。私の慎重と我慢は実はある種の私心を込めた、自分を守るための我慢で、『精進要旨』「忍とは何か」の中の「常人が世間体に執着する忍」の類のもので、大法が求めた大きな善と大きな忍まで遥かに遠いのです。ここまで悟ったら、今後職場での姿勢を変えて、自分が間違っていない時にひたすら譲歩と我慢をすることは止め、また、職場でもっと発正念をする決心をしました。
ある日、女性の同僚がまた理不尽な態度で私をいじめて、大声で騒いでとても態度が悪かったのです。自分がまったく間違っていないことを確信した上で、私は大きな声で彼女に言い返しました(怒った大声でなく、冷静な対応で)。以前、私はこのように人に大きな声で話したことが一度もなかったのです。彼女は驚いて、何も話せませんでした。
あれから、彼女は私に対してずっと温和な態度をとっています。以後、私は会社でずっと傲慢でもない卑屈でもない態度をとっています。同僚たちは私の変化を見て、以前のようにわざと私を困らせたりする事もなくなりました。そして、その女性同僚も含めて、私が法輪功学習者であることを知りましたが、信仰を持つ私にみんながかえってとても恭しい態度で接するようになりました。
これらの出来事を通じて、私は修煉と「真・善・忍」の三文字を一層深く理解できるようになりました。大法弟子は真相を伝えて衆生を救う時、善良で慈悲な一面を見せると同時に、魔性を発して道理に合わない人に大法の威厳を適切に示す必要があると思います。威厳とは道理に合わない虚勢を張ることではなく、威厳も「善」の内包の一部分だと私は理解しています。現代人は、魔性の一面がとても強く、弱い者をいじめ、強い者を恐れる人が多くいるので、大法弟子は弱いと思われたら、世間の人は魔性に動かされて大法弟子に対し罪を犯しかねません。もし大法弟子が威厳の一面を見せて、大法を侵す行為を止められれば、本当の善の行いになるのではありませんか。
(続く)