文/ハルビンの大法弟子 長安
【明慧日本2012年4月8日】
2、学法の中で交流と切磋琢磨の問題について
学法グループは学法以外に、決まった時間をとって交流を段取りしなければなりませんが、交流の時間は長くなりすぎず、理性的に深く入り込むように努力し、物事そのものについて交流せず、形式に流されてはいけません。皆で交流と議論をする時、時にはこれらの物事の具体的な経緯についてばかり議論しましたが、実際にこれは単なる一つの方面に過ぎないのです。物事が起きる前に、法に対してどのように認識していたか、物事が起きてから、発展していくうちに、どのように法に対する理解に基づいて、内に向けて修め探していたか、そして物事が過ぎた後に、この事の全プロセスを通して、法の上でどのくらい自らを高め昇華できたか、内に向けて修め、探すことによってどのような不足点を修められたか等について交流することこそ、最も重要だと思います。私達は具体的に発生した出来事に焦点を合わせて、法の上で上昇し、はっきりと明白な認識があってこそ、境界を昇華し、次元を高めることができるのです。逆に、私達の交流がただ「物事の中で物事を議論する」状態であれば、議論し切れない事とやりきれない事ばかりになってしまうのです。
私は修煉の中で、ずっとこのように行ってきました。法の上でどのようにすべきかを悟ったときに、全体を高めるため、私はすぐに同修と交流します。同修がするかしないか、どのようにするかに関係なく、私は必ず法をもって師とし、確固する意識で自分の悟りに基づいて行います。同修が一つのことを提案した時に、私はまだ法の上で悟っていなければ、この事について法の上で根拠があるかどうかをみます。もし法の上に根拠がなければ、誰が提案したか、あるいはどのぐらいの人が提案したかに関わらず、私は盲目的に服従しません。なぜなら、私達の修煉は法を以って師とし、人を以って師とするのではなく、一部の人が大部分の人に服従することでもないからです。
大法弟子は互いに同修の不足点を見たとき、甚だしく法の上からのずれが生じたときに、必ず善意を持って同修と交流しなければなりません。ある同修は、大法弟子は不足点があっても、甚だしきは法の上で厳重な問題があった時でも、お互いに交流してはいけないと言いました。話せば旧勢力の按排を認めることになり、そのように同修を定めてしまうとの認識があるようです。これは法の上で正さなければならない認識だと思います。私達は大法弟子なので、あなたの事なら私の事であり、私の事ならあなたの事であるのと同様に、同修の問題と不足点に直面したときに、私達は一緒に師父が按排した修煉の道を正しく歩まなければならないということに基づいて、大法と大法弟子への損失を減らし、さらには損失がないようにするという基点から、いかなるとがめ合ったり排斥しあったり、恨んだりするような心を持たずに、善意に同修と一緒に交流して高めることは、完全に法の上にあると思います。
3、交流と切磋琢磨と修煉の関係を正しく置く
大法弟子はお互いの交流を通じて、自分の不足点を見つけることができます。学法を比べ、修煉を比べることを通じて、お互いに促しあいながら、より早く法の上で高めることができるのです。しかし、相生相克の理が存在するため、ある同修はこのような環境の中で依頼心を生じました。問題や、矛盾を遭遇したときに、あるいは新しい環境に変えたときに、自分が何をすべきか分からなければ、すぐ他人と交流することに夢中になって、かつ交流した後の認識を真の認識とするのです。さらにある同修は協調人や、「名人」や、古い学習者に付いて、協調人や、「名人」や、古い学習者が何らかの行いをすれば、自分も訳が分からないままに付いて行き、そのような行いをするのです。法と一致するかどうか自分も分からず、自分が明確に法の上で悟ったことに基づかずに行動するのです。真に指導作用があるのは師父の法に他なりません。同門弟子の色々な悟りや、認識は手本と引率の役割しか果たせないです。自分を高めることは自分でしっかり把握しなければなりません。自分の向上と昇華を同修との交流、あるいは他人の悟りに託してはならず、心を静めて学法することと大法に対する正々堂々とした認識に託すべきだと私は思います
最後に
心を静めて学法することを実行するには、師父が私達に渡された三つのこと、発正念と真相を伝えることも緩めてはいけません。「私は今なぜ向上がこれほど遅いのかと言っている人がいます。本ばかりを読んでもだめだと答えました。大法弟子は三つのことを行わなければならず、一つのことだけを行なっているから、向上を感じていません。もし三つのことを全部行い、しっかり行なったら、向上を感じられます。当初の個人で法を勉強し修煉する段階と完全に異なり、つまりこれが原因です。」(『二○○五年サンフランシスコ法会での説法』)ですから、心を静めて学法することを実行するには、単なる一つのことをやり遂げただけではいけないので、必ず三つのことを同時にやり遂げなければならず、全体的に向上した上で、心を静めて学法することができるのです。大法弟子は三つのことをやり遂げてこそ、師父が段取りしてくださった修煉の道で正しく歩むことができ、旧勢力の変異した按排を根本的に否定することできます。そして、大法と大法弟子に対する損失は少なく、または損失なしに済むのです。
この文章を書いた当初に、邪悪は私に高熱を出させる形で妨害を行いましたが、私は絶えず正念を発し続けて、二日目以降は徹底的に取り除きました。このことから、邪悪は大法弟子全体が心を静めて学法することに対して非常に恐れているようです。すべての大法弟子がみな筆をふるって、心を静めて学法することに対して、あるは他の方面での心得を書き出して、そして明慧ネット、大法が作り出した皆で交流できるプラットフォームを利用して全体的に交流できるように願っています。この文章を書いた時に、師父からの慈悲なる啓発と加持を多くいただいたと感じながら、修煉の境界が限られているため、書き出した文字では、実際に心の中にある真の悟りと感じ取ったことをすべて表すことができませんでした。
不足なところがあれば、大法弟子による叱正と圓容をよろしくお願いします。合掌。
(完)