文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年4月19日】ある日の午前、小さな出来事から夫(常人)とトラブルが起きました。
煉功が終わって、私が冷蔵庫に食べ物を入れた時、夫は気に入らなかったのか、私がいい加減に家事をしていると大声で指摘し、色々と耳の痛い話をしてきました。当時私は不機嫌にはなりましたが、彼と争わず、言い返しもしませんでした。ただ師父がおっしゃった「正しいのは相手で、間違ったのは自分」(『洪吟三』「誰の是と誰の非」)を何回も呟いて、自分の心を抑えました。
落ち着いてから、私は法を実証すべきだと思い、夫に話かけました。「そんな些細なことでなぜあんなに怒りだしたのですか? 今日私が師父の教えを聞かず、一言でも言い返したら、喧嘩になりかねませんでしたね。私は師父の法を学んだから、忍びました。私は法を実証しているのです」
夫は「あなたは忍んだと言いますがが、ちっとも忍とは言えません。あなたは師父の教えで私を抑えているだけです。法理はあなたが言わなくても私は分かります」と話しました。夫の話を聞いて、師父が彼の口を通じて私を悟らせているのだと分かりました。
実は私は自分を実証していて、法を実証しているのではありませんでした。内に向けて探し、この小さな出来事に深く隠れている自分の私的な心、闘争心、嫉妬心、他人に言われたくない心などを見つけました。表面上、夫と言い争わず、法を実証していると話していますが、実は師父の法で他人を変えようとしていて、今後このような態度を私に取らず、私を刺激しないことを望みました。はっきり言いますと、他人の褒め言葉ばかり聞きたがっていました。
十数年の修煉の中で、夫とトラブルがある時、ずっと平然としていられませんでした。彼が一言言うと、私の心は動かされ焦りました。ある時は師父の法理で自分の心を抑えて、よく行ないますが、ある時は辛抱できず、言い返して事後、後悔したりします。師父は「いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません。相手の話は非常に刺激的かもしれませんが、あなたの痛いところに触れたから、刺激的だと感じたのです。本当に不当な扱いを受けたかもしれませんが、その話は必ずしもその人が言ったのではなく、私が言ったのかもしれません。(皆笑って) そのとき、あなたがどのようにこれらのことに対処するのかを私は見ており、相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります」(『マンハッタン説法』)
私は今からこの千百年来、骨にまで形成された人の理、人の観念、人の習慣を全部修めきり、正念で排斥します。毎回トラブルに出会った時にまず自分を探し、内に向けて自分を修め、平然としていられるところまで修めます。これが真に法を実証することです。これは私の認識で、不足の部分は同修の慈悲なるご指摘をお願いします。