文/吉林省の大法弟子
【明慧日本2012年5月13日】
三、真相を伝える中で自分を修める
真相を伝えている中でもたくさんの常人の執着心を取り除きました。真相を伝える過程で社会を歩き回るので、色々な人と出会いました。ある日、私が市立病院の前で二人の親子に真相を伝え始めて間もなく、母親を介護していた娘さんが罵倒してきました。その時は内心でとても辛かったです。真相を受け入れない衆生を助けられなくて悲しく感じました。
その場所を去った後、内に向けて探してみました。修煉前は内向的で、メンツを重んじるタイプで、虚栄心、負けず嫌いの性格など、今日起きた事は決して偶然ではありませんでした。まだ完全に取り除けていない常人の執着心が残っているということが分かりました。これらの不正な心を取り除けるよう、師父に正念の加持をお願いしました。それ以来、わりと順調でした。
また、ある日、私達は4人で農家を一軒ずつ回って真相を伝え、神韻DVDを配っていました。私は年配の同修二人と一緒に、二つの村を担当していました。かなり広い村で一つ目は順調でした。真相を伝えると、ほとんどの人が「三退」を承諾してくれました。二つ目の村に入ると、たくさんの住民が外に集まって来て、色々な意見が飛び交いました。中には良くないことを言い出す人もいました。私と同修は一緒に、内心で師父のご加持をお願いしながら衆生が大法に罪を犯さないよう正念を発しました。「このまま続けますか?」と一人の同修に聞かれて、私たちは「もちろん行きます!」と口をそろえてはっきりと答えました。私たちは衆生を救う為にここへ来たからです。最後に尋ねた家で、ある男性は真相をよく理解してくれ、すぐに本名で「三退」に承諾しました。喜んで外へ出て、名前を書き下ろそうと思うと、なかなか思い出せませんでした。「まさか名前を忘れたの?」と同修に言われ、「あなたも思い出せていないじゃないのよ」と内心では不満に思いながら、「あなたも忘れたじゃないの? 私が真相を伝えていた時にあなたがすぐそばで名前を書きおろすべきだったわ」と不満をぶつけてしまいました。しかしその場ですぐに、怨む心が芽生えたことによる不正な一念だと気づきました。直ちに「これから絶対にお名前を忘れないように気をつけます」と言いなおしました。帰宅後、心を静めて内に向けて探し、今日一日真相を伝えた時に自然に露出した常人の執着心を探してみました。一つ目の村が順調だったので歓喜心が生まれました。二つ目の村は人がたくさん出てきて不安がありました。その恐怖心から売店に入って真相を伝えることが邪魔されて、とうとうできませんでした。最後のお宅で「三退」を依頼された際、名前を思い出せなかった時、同修のせいにして怨んだりしていました。それらの常人の心を取り除かなければ、修煉の道でそびえ立っている壁のように、先が遮られてしまい前へ進めなくなります。
四、一思一念の中で自分を修める
最近、数台のパソコンにアプリケーションをインストールしたところ、すべて正常に稼動しなくなりました。今まで一度も遭遇したことがないような問題でした。ほとんど自力では解決できないようなトラブルで、しかも長い時間その状態が続いていました。
原因究明の時、また目線を外に向けてしましました。インストールした同修の出発点が正しかったかどうか、心性が基準に達しているかどうか、パソコンに気を使っているかどうかなどを疑いました。たまには内に向けて探そうとしましたが、しかし深くまで追求せずに、上辺の形式で終わってしまうことが多かったのです。なかなか状態を改善することができませんでした。技術専門の同修を呼んで、何度も一緒に解決しようと繰り返す内、同修も手に負えなくなりました。
ある朝、私と同修が一緒に法を学んでいた時でした。師父の法「どのプロジェクト、どのことも、行なわなければそれでいいのですが、行なった以上、しっかり行なうべきであり、最後までやり遂げなければなりません。でなければ、歴史であなたが浪費したこれらの時間をどのように記載すればよいのでしょうか? 成功できなかった事はすなわち失敗なのです。どうしてもあなたの考えで行ない、成功したら、あなたはやっと威徳を樹立するのではなく、あなたは協調するときにどういう念を動かしたのか、協調の中でどのように行なったのか、それこそ修煉の過程です。仕事の中で念が正しく、自分が修煉者であること、自分の使命と責任を忘れず、自分が完成させるべき部分を完成させることができれば、これはあなたが威徳を樹立する過程で、あなたの修煉の過程で、大法弟子が歴史の使命を果たす過程なのです」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』)を読み終えて、連日の困惑が解けたように、何故その不正な状態が続いているかがハッと分かりました。その原因は自分の不正な一念でした。
技術の同修から、いつも技術の関係資料について目を通すように言われてきましたが、私は「難しくて理解できない。見たくない。眠くなる」などの思い込みを抱いていました。実はその常人の観念に阻まれていました。同修とそれについて交流した時「資料が難しいから読まない」と同修が言ったので、私と意見が一致して、もうそれ以上勉強することがありませんでした。目先で使える物で何とか間に合わせようと思っていました。解決不可能な問題が起きたら、技術専門の同修に任せばいいと、この不正の一念が現在の妨害を招いてしまいました。思い出すと胸が痛くなる程、たくさんの貴重な時間を費やしてしまいました。
「人は自分の考え方が間違って、心が歪んでいるから、厄介なことを招いたのです。」(『転法輪』)と、師父のお言葉がありました。その不正の一念がどこから生まれてきたかを、深く根を掘って究明してみました。まとめてみると、下記の通りいくつかの原因が見つかりました。一、最近は忙しくて真面目に学法と発正念を行っておらず、大法の事を常人の気持ちでやっていました。二、心が法に沿っていない為、まだ内側に残っている利己心が旧勢力に利用されていました。困難を他人に回して、自分はなるべく楽な方へという安易心が現れました。三、現状に満足して向上心がありませんでした。プロジェクトをただ行なっているだけで、プロジェクトにおける修煉を放棄していました。「行なった以上、しっかり行なうべきであり、最後までやり遂げなければなりません」(『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』)という師父の要求に符合しませんでした。四、意識的な惰性が浮上してきていました。頭を使わず、常人の心構えを用いて大法の事をこなしていました。正念が足りなかったので、法から離れたその不正の一念を邪悪に付け込まれてしまいました。暇がない程忙しくさせられてしまい、「三つの事」を行う余裕もありませんでした。
内に向けて探すのは修煉者にとって至宝であります。その都度、常人の心を見いだせないままに、法を用いて物事を正そうと思っていたら極めて危険なことになります。形式上はたまらなく忙しくしているように見えますが、実際のところはもう法から遥かに離れていたかもしれません。実質的に常人が常人の事をやっているのに過ぎなければ、旧勢力に按排された道を歩んでいます。原点は自己の為なので、どんなに働いていてもそれは修煉といえるでしょうか? 「煉功者が自分自身に正しく対処できないことによって、災厄を引き起こしたこと、言い換えれば、心の歪みによって災厄を招いたことについてお話ししました。」(『転法輪』)自分を修める中での一思一念は極めて重要なのです。
(続く)
(明慧ネット第七回中国大陸大法弟子修煉体験交流会)